紅葉の花が咲いている。
そうか、今はもうそんな季節か。
木の根元に寝そべり、梢を眺めて、そう気づく。
新緑の葉がさらさらと揺れている。
薫風が気持ちいい。やはり、初夏は良いものだ。
「…あ、いたいた。おーい、起きてるかー?」
軽く放られた声に、上身を起こす。
にこやかに笑う友人がそこにいる。
「お、起きてた」
友人は、微かに笑みを深めて、横に腰掛ける。
右頬に、片えくぼがふんわりと浮かぶ。
「何してたの?」
「…別に。いい天気だから昼寝でもしようかと思ってただけだよ」
「…そっか。今日は天気良いもんな」
そっけない私の答えに友人は、静かに笑みを深めて、それから私と同じように梢を見上げた。
若葉が風に揺られて、小さくさざめく。
暖かな陽の光が、青紅葉の緑を柔らかく透かす。
「…なあ、明日だよ」
友人がふと、何気ないように口にする。
「…」
「早いよな、三年って」
友人は楓を眺めながら呟く。
そう、もう明日で三年だ。
私たちが、一緒に暮らしていた、兄同然だった、あの子が行方知らずになってから。
ここは孤児院の中庭。教会域だ。
教会の慈善事業として建てられ、親のいない子どもたちが共同生活するこの土地は、神の名の下に保護されている安全な場所だ。
ここで、私たちのような戦災孤児や友人のような捨てられた子は、子ども同士の社会の激しさに晒されながら、でも外界からは守られながら…
「…どこ行っちゃったんだろうな」
「……ね」
三年前、私たちにとって兄代わりだったあの子は、突然姿を消した。善人で潔白で真っ直ぐなあの子は、私たちにとって、眩しい兄さんだった。
「…明日には帰ってくるかな?」
「…帰ってくるといいけどね」
兄さんが消えたのは、ふっと、私たちが目を離した刹那だった。
その日も、私たちと兄さんはずっと一緒に、この楓の木の下で遊んでいた。
あの時、ふいに強い風が僅かな灰塵を巻きあげて吹きつけて、その刹那、私たちは目を瞑った。
そして、目を開けた時には、兄さんはいなかった。
「兄さん…帰ってくるよな?」
「…分からない」
その後、周りの人間たちに、私たちは起こったことを説明した。
でも、みんなは兄さんのことは知らない、と言った。
…みんなはむしろ、血相を変えて、私たちの肩に手を置き、頭がクラクラするくらい、私たちを揺さぶった。
そして。彼らはみんなこう言った。
「目を閉じた刹那に、あなたたちが何処からともなく現れた」と。
「…兄さんはいたんだ。確かに」
「そうだ。兄さんはいた。きっと明日こそは帰ってくる」
兄さんは誰かに消されたのだろうか。
兄さんは自分から消えたのだろうか。
あの刹那に何があったのだろうか。
何も分からない。
でも、あれが刹那の出来事だったから、私たちは永遠に信じていられるし、待っていられる。
次の刹那で、兄さんが帰って来るかもしれない、と。
梢で、楓の葉たちがさざめいている。
耳は不思議だ。耳による音の記憶は、三年前の“刹那”すら思い出せるらしい。
そして、耳の記憶というものは、鼻とも繋がっているらしい。
さざめきを聴くと、三年前の刹那が鼻腔をくすぐる。
香るはずのない、甘い煙の香りが、刹那に掠める。
嗅いだことのない匂い。咳き込みそうなほど、煙たくて甘ったるい匂い。
風が梢を揺らす。
さわさわと、楓の葉と花が、柔らかい声でさざめく。
暖かい陽が、僕らを包んでいた。
小さな手を握る。
雨はまだ降っている。
霧のような雨は、こんな細路地にも平等に降るらしい。
ゴミ袋や段ボールが汗のように、雨粒を滴り落としている。
小さな手が、僕の手を強く握り返す。
レインコートのフードの縁から、水滴がぽたぽたと落ちるのが見える。
「寒くないかい?」
僕は、傍にいる小さなレインコートに向かって声をかける。
黄色いフードがこくり、と動く。
「そうか、僕には少し寒いかな。」
僕は、自分の体温の高揚を感じながら、口を開く。
「このままだと、風邪をひいてしまいそうだ。…移動してもいいかな?」
頷いたのを確認して、僕は手を引いて、歩き始める。
暖かい家へ帰ろう。
ここは無法地帯。政府に捨て置かれた都市の一角。
他の地域から隔絶され、さまざまな種族や民族を抱えるこの街は、彼らには手に負えないものらしい。
隔絶されたこの街は、法律とは違った独自の文化を形成し、社会構造も善悪も貨幣さえも、この街にしか見られないものだ。
この街に、絶対父権的な存在はない。
子どもから老人に至るまで、誰の行動もみな、自由であり、無制限。
犯罪も自由。復讐も自由。命を絶つのも奪うのも自由。
誰かに自分の人生を決められることはないが、誰かに自分の人生を任せることもできない。
全てが自己責任。
時折、冷たくも感じるほどに、それは浸透している。
僕は、小さな手を引きながら、自宅へと向かう。
彼に出会ったのは一昨日だ。
家族を探していた僕の前で、彼は、青ざめた顔で路地を彷徨いていた。
それを見て、僕は、彼を連れて帰ることにした。
実のところ、僕はずっと一人でいるのが寂しかったのだ。
なにしろ、過干渉のないこの街に、“冷たすぎる”という考えを抱く人間だ。
僕には、誰かのぬくもりが必要だった。
普通の街では、“誘拐”という犯罪行為に当たるかもしれない、“子どもを連れ帰る”という行動も、この街では自由だ。親は取り戻すも自由、放っておくのも自由。
何より、彼も、僕について来ることを選んだ。
それから僕たちは、一緒に暮らし始めた。
僕は、彼の、冷たい手を握る。
過去の彼は、生きる意味を見いだせなかったのかもしれないし、生まれた時から彼は、生きる意味とは無縁だったのかもしれない。
何せ、ここにはいろんな人がいて、いろんな種族がいる。
僕は、生きる意味とかはよく分からない。
僕って昔から、自分の意志が希薄なんだ。だから、1人になるまで、自分が1人に向いていないなんて、思いもしなかった。
意志が白湯より薄い僕は、きっとこの街には向いていない。
でも、と僕は思う。
でも、僕と彼が一緒に生きていくことが、数少ない僕の大事なことなのではないか、と思っている。
生きる意味が無い同士の僕たちが、一緒にいることは大事なんじゃないか、と。
だから、僕たちは生きていく。
この冷たい街で、温かさを分け合いながら。
僕たちの家が見えて来る。
ふいに顔を上げた彼が、僕の方を見て、温かく微笑んだ。
「我々こそが、皇軍!善人たる貴殿ら一般市民を守る、善良優秀たる武器なのである!」
聞き飽きた演説に、あくびを噛み殺す。
俄かに活気付いた中央広場。
皺一つない老竹色の制服の胸に、釦と磨かれた勲章を金色に煌めかせ、厳めしい髭面の男が、朗々と語る。
傍らには、アイロンに背まで伸ばされたような兵たちが、直立不動で広場に集まる観衆を眺めている。
この周辺に住む者は、老いも若きも皆、広場に殺到し、熱の籠った目を輝かせながら、彼らを見つめ、食い入るように話に聞き入っている。
自分たちが善側であり、来たるべき有事では、正義の側に立つのだ、と信じて疑わず。
すでに“善”“正義”という口当たりの良い甘美にうっとりと善っぱらった聞き手たちの面差しには、既に傲慢と嫌疑の影が差している。
大きく伸びをする。
正直、何度見ても、容易く生まれるこの善っぱらいの、お世辞にも人の形相とは思えぬような表情は好きになれないが、徳にはなる。
個人的な嫌悪の問題を除けば、概ね良い運びだ。
「我々は“善”として、正義を守るため、立ち上がらねばならない!
一層張り上がった声と、それに賛同する観衆の、湿った熱を持つ声を耳の端に、私は商品を広げる。
どうやら、こちら側でもよく売れそうだ。
「我々は最も近しい“悪”を断つため、“悪”を糺すため、戦うのだ!」
「さあ、今こそ!武器を取るのだ!!」
善いが回った者たちの、粘つくような凄まじい歓声が上がる。
とうとう私の出番のようだ。
広げた商品の前で、私は声を張り上げる。
「どうぞ!正しき善なる英雄様たち!悪を糾す宝具はここに!善なる皆様の勝利を祈りまして、只今なら特別価格でご奉仕させていただきます!さあ!」
広場の演説場に集まっていた、人にも満たぬ善っぱらいたちが、商品の前に列を作る。
一番前に立つ男は、商品の銃を担ぎ上げ、深く影の差す、パーフェクトな笑みを浮かべる。
武器商人という仕事は、善悪を売り捌く仕事だ。
群衆たちは皆、取り引きを済ませ、兵となって、歩き出す。夕焼けの赤と冷静な静けさが、広場に落ちる。
「協力感謝する」
髭面の男が壇上から下り、手を差し出す。
私は、その手を握り、握手を交わす。
「戦争に善悪などない。此度の戦、我々は国益のために、必ずやあの領土を得なくてはならぬ」
髭面の男は、どこか痛みを堪えるように頬を歪める。
眉辺りから走る傷跡が、くっきりと見える。
「だが、俺は国民に犬死せよ、とは言えぬ。悪として命を賭けろとは言えぬ。…善人として死ねぬのなら、せめて仲間内だけでも、善人と思い込んで生涯を終えて欲しい、それだけだ」
他人に言われるままに、騙され、善人面で行進する群衆より、他人の死に際の幸いを祈り、騙し、痛みとともに商人に礼を言う軍人の方が、善人に近しいのではなかろうか。
善と思い込んだ人間の、悪に対する非情さを思えば、それを作り出す一連の行為は、凶悪としか言いようがないが。
「俺は地獄に行くであろうな」
だが、髭面の男は、そう呟いて、握手を解く。
「また会おう。ともかくありがとう」
彼らは去って行く。
また会おう、ね。
私も地獄へ行くというのだろうか。その通りだろう。
武器商人という仕事は、顧客に合わせて善悪を融通し、正義感を売り捌く仕事だ。
顧客の客観的な善悪は関係ないし、顧客の陣営も関係ない。
それら全てが、私たちの商材なのだから。
私は店を畳む。武器と金を背負う。
今日中に国境を越えねばな、口の中で呟く。
赤い空のあちこちに、夜の闇が、静かに伸び始めた。
人類は滅亡を望んでいた。
今となってアタシが言えるのは、その一言だけだ。
仲間たちの声を聴きながら、静かなこの星を進む。
アタシたちには、最期を見届ける義務がある。
空は厚い雲に覆われている。
急激に冷え込んだ世界は、常識を片っ端から覆してまわっている。アタシたちが今も活動しているのも、奇跡みたいなものだ。
人類…ヒトは、高度になりすぎた。
肉体に頼るべきものを自身が発明した無機物に頼るようになり、脳を使うべきものをプログラムに頼るようになり、本能や感情さえも人工技術に差し出した。
ヒトはもう、生きる屍だった。
どの種族よりも繁栄していながら、絶滅していた。
アタシたちには、それが理解できた。
あるものはこう言った。
「ざまあないね!奴等、このまま徐々に衰退していけばいいんだ!」
またあるものはこう言った。
「…まあ彼らが望んだことなら、それが彼らの幸せなら、僕たちはそれに従うだけさ。…僕らは、最期までずっと付き合うさ。」
またあるものはこう言った。
「彼ら、随分と腑抜けてしまったわね。…まあいいわ。私たちの生活は変わらないもの。」
みんな、ヒトが絶滅しながら存在し続けることをあっさり受け入れて、いつもと変わらなかった。
でも、アタシたちは、考えることをやめなかった。
ヒトはもう、絶滅している。
この星で、屍がずっと歩いたところで、足から腐って崩れ落ちていくだけだ。
だからアタシたちは願った。ヒトの祈り方に倣って。
流れ星に願いを。
アタシたちの願いは、合わさり、集まり、大きな“声”になった。
アタシたちの“声”は、空に届いた。
願いを聞き遂げてくれた流れ星が、この地に落ちたのは一昨日のことだ。
陸が見えてくる。何億年か振りの、沈黙に包まれた陸。
アタシたちは、飛び跳ねる。
人類の滅亡を見届けるために。息を継ぐために。
ぱしゃん
尾鰭が海面を叩く音が、よく響いた。
頰を引っ叩かれたような衝撃だった。
俺はただ、呆然と俯くしかできなかった。
まるで、初めて殴られた乳臭いガキみたいなザマだ。我ながらダサいと思う。
でもこれはねえだろ、これは。
神なんて信じちゃいねえが、これで、神がいたとして、そいつも大概、碌でもねえやつだってことが分かった。
俺が今いるのは、情報ギルド。
ただの情報ギルドではない。この界隈の情報屋を全て総括する、最大手ギルドだ。
だがここは、当然のように真っ当な場所ではない。
この真っ当な現代において、真っ当な商品を扱っている店の、真っ当な大人が、“ギルド”なんて厨二臭え協会になんて属さない。
だが、高いスーツに身を包んだ厳ついファーザーがいるわけでもなく、恰幅の良いスーツ姿が一様に並んでるわけじゃない。
ここに集まっている連中は、みんな上品な正装をしている。
礼儀も姿勢も立ち居振る舞いも、織り目正しく、声を荒げる者もいない。連れている人間もさまざまで、きっちり身だしなみを整えている者、タイトなフリースをきている者、さまざまだ。
タネを明かそう。
ここは、魔術や奇跡、邪教や神秘、カルトの実用的な情報を扱う、オカルト情報ギルドだ。ヒトには、冒涜的で信じがたい、直視し難い“真実”を取り扱う場である。
死んだ大切な人を生き返らせる、後悔していることを時間遡行してやり直す、シュレディンガーの仮説を実証しに別の世界線へ旅行する…そういった程度の無茶は、ここに会している情報を得、ここに出入りする奴らにサポートしてもらえれば、サルでも容易に出来る。
そう、容易に出来るのだ。
…そういう情報は、必要な人がアクセスできるように自由公開されるべきではないか?
だが、俺が知った時、そんな状況ではなかった。情報ギルド_つまり、この組織が_情報を簡単に売れないよう、ルールを設定していたのだ。
そのルールを俺はぶっ壊した。一年かけて。ぶっ壊したはずだ。はずだった。
だが何故、ここは何食わぬ顔で存続している?
何故、情報を自由に得られるようになった弱者等が、道半ばでのたれ死んでいる?
「ルールによる制限取引が、彼らの真の味方だったからですよ」
背後で笑みを含んだような声がした。
「私たちが取り扱う情報は危険なものなんですよ?扱いようによってはどちらに転ぶかも分からない。…だが、私たちは基本的に、好奇心の塊です。ついつい、危険な情報を、何も知らぬ者たちに格安で渡して、地獄の沙汰を見たくなる。」
ニヤついた声がまとわりつく。
「ですから、ギルドは一般人を守るため、ルールを作っていたのですね。価格統制も会員制も。…いやあ、私共は感謝してますよ、貴方にはね。」
弾かれたように振り向いてしまう。
好奇心と勝ち誇った傲慢を貼り付けた、下卑た笑み。
笑みを浮かべたまま、奴は俺に深く頭を下げて、踵を返す。
敗北感、罪悪感、嫌悪感…苦い思いが俺の中で混じり合う。
俺は、奴の糊の効いたスーツが見えなくなるまで、動けなかった。