〈暗がりの中で〉
私は閉所恐怖症だ。特にエレベーターが怖い。どのエレベーターが怖いかと聞かれると、私は必ず上る時や下る時に照明が消えるエレベーターだと答える。
あの上っていると分からせる重力に加えて、暗闇で見えない状態になると、動悸がする。
最近のエレベーターはそんな仕様はない。少なくとも、今まで見たことはない。ただ、幼い頃、テーマパークへ遊びに行き、泊まるホテルのエレベーターがその仕様だったのだ。幼い私は「怖い」という感情を上手く伝えることができず、泣きながら過呼吸になった。それ以来、エレベーターを使う度に緊張するようになった。
「じゃあ、上村頼んだぞ」
上司からそう言われ、大手の芸能事務所へ足を運んだ。
私はぺこりと頭を下げ、会社の外で待っているタクシー運転手に行き先を伝え、流れる景色を窓から見ていた。
契約を結ぶというのは、子どもの頃の指切りげんまんのような軽いものでは決してないことに気づいた。そんなのは、当たり前だが、今まで順風満帆な生活を送ってきた私は、社会人として少し世の中を舐めていたのかもしれない。エレベーターを除いて。
「着きましたよ」
運転手の声ではっと気が付き、経費で払い、目の前にそびえ立つ事務所に圧倒された。今や世界を握る事務所との契約を任されたという自覚が、今になって引きずる。
事務所に入り、カウンターで受付を済ませ、待っていた担当者と挨拶を交わした。
40代、いや50代くらいだろうか。白髪交じりの高身長な男性は、年齢が娘でもおかしくない私でも物腰の柔らかい対応をしてくれた。
「では会議室は12階にあるので」
その一声で背筋が凍る。
大丈夫だ、今まで数々のエレベーターを乗ってきたが、照明が暗くなるエレベーターとはあったことがない。
大丈夫、大丈夫。
私は心の中で言い聞かせ、担当者と一緒にエレベーターに乗った。
案の定、暗くならない仕様のエレベーターだったようで、安心する。
これなら大丈夫だと私の脳も認識したようで、私から担当者に、最近勢いのあるアーティストについて話しかけた。お互い同じことを考えていたようで、意外にも盛り上がり、担当者と束の間の談笑を楽しんでいる中で、急にエレベーターが止まった。
照明が落ち、真っ暗になった。
「あっ、止まっちゃったかな?」
担当者は冷静にスマホを取り出し、ライトを付け、エレベーターの緊急事態ボタンを押した。
しかし、そんな冷静な担当者とは、反対に私は息苦しくなった。何とか耐えてたつもりだったが、私の乱れた吐息に気づいたのか、担当者が私の顔をのぞき込む。
「もしかして閉所恐怖症ですか?」
図星を突かれ、どうすることもできない私はこくこくと頷くことしかできなかった。
「大丈夫ですよ、私の妹も閉所恐怖症なんで。対処法は知ってるつもりです」
そう言い、ゆっくり呼吸するように促された。
この3ヶ月半、このプロジェクトのプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
だが、やると決めたからには必ず結果を残さなければならない。
学生気分でいたら恥ずかしい。と自分で喝を入れ、何度もリサーチやマーケティングに励んだ。
今日初めて会った人とは思えないが、担当者の柔らかい声に意識が遠のいていった。
〈紅茶の香り〉
仕事が終わり、久しぶりに駅前にある雑貨屋へ向かった。今日、同僚が勧めてくれてその雑貨屋の紅茶が美味しいとのことで。気づけば自然と雑貨屋へ向かっていた。
店内はこじんまりとしており、なんの曲かは分からないが、オルゴールが店内を潤していた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
20代あたりの女性が声をかけてきた。丁度、自分の妹と年齢が近そうでいつもであれば断るが、今回は答えてしまった。
「紅茶を探してて。同僚がここのアールグレイがとても美味しいと聞いたので」
「ありがとうございます。こちらの商品がうちの目玉商品です」
同僚が見せてくれた商品と同じパッケージをした小さな小袋だった。
「じゃあ、これを1つお願いします」
私は会計を頼み、店を後にした。
小さな袋に入った小袋からふんわりと香りがした。
〈行かないで〉
祖母が死んだ。
優しい祖母だった。
世界で唯一、私のことを理解し、肯定し、愛してくれる存在だった。
急な交通事故に巻き込まれ、3時間集中治療室で治療を受けたが、見込みがないと言われ、祖父が延命治療を中断させた。
喪主は祖父が務めたが、誰がどう見てもも抜け殻のように顔が真っ青で、今にも倒れそうな勢いだった。何度も隣に座る父が代弁したり、祖父の背中をさすっていた。
最初は、父や母たちは喪主は自分がやると言ったが、「最後ぐらい母さんの隣にいたい」という祖父の要望で決めた。
葬式が終わり、火葬場に着いた。
火葬場のスタッフが、祖母が眠る棺桶を外に運び出し、納棺の流れに入った。
祖父もわかっているのだろう。
これが終われば、とうとう最後の別れを告げなければならないことを。
時間が止まればいいのにと思ったが、現実は残酷で、「皆様、最後のお別れをしてください」と喪服を身にまとうスタッフが言った。
それぞれが祖母の顔を撫でたり、頭を下げたりする中、ひとり、祖父はソファーに座っていた。
私は最後の別れを告げた。
おばあちゃんっ子だった私だからか、両親は一番最初に祖母と話すよう促した。
祖母がつけていたネックレスを外し、自分の首に着けた。金属製のネックレスで、海に入っても錆がつかないとよく自慢していて、祖父が還暦祝いに買ってくれたものだ。それを孫である私がつけるのは生意気に見えるかもしれないが、生前祖母の口癖で「ばあちゃんが死んだら、千穂にあげる」と言われていたため、つけさせてもらう。
ネックレスのはずなのに鎖のように感じたのは私は気の所為だろうか。
祖母が死んだという事実が今になって、私を首につけてるネックレスから足先まだ襲ってきた。そして、それは私だけではなかった。ソファーに座る祖父も同じだった。
祖父は祖母がつけていた結婚指輪をチェーンに通して、私と同じようにネックレスにしていた。
あまりにも祖母を失った悲しみに耐えられない姿を見せる祖父が、心苦しくて火葬場へ向かうバスの車内で私が提案した。
「プレゼントにはそれぞれ意味が込められてるの。特にアクセリー系はそうなんだよね。指輪は契約、約束。ネックレスは『永遠にあなたと居たい』っていう意味があるんだよ」
「そんなの、どこで覚えてきたんだ?」
「女の子は気にするんだよ?もらったプレゼントの意味とか、特にあげるときはね」
「じゃあ、この母さんの結婚指輪はネックレスにしようか」
「そう言うと思って、チェーンあるよ。あげる」
「お前は母さんと似て、準備が良いな」
ふっと祖父は祖母が死んで初めて笑った。
最後の別れが終わろうとしたが、肝心の喪主がまだしていなかった。スタッフは気を遣って無理はしなくて良いと言ってくれた。しかし、祖父は無言で立ち上がり、祖母のもとへよろよろと近づいた。
自然と周りの人間が、道を作り、最後の別れの時間を惜しんだ。
祖父は祖母の顔を撫で、なにかをつぶやいた。
なんと言ったのか私には聞こえなかったが、そっちの方が良いだろう。愛し愛される人間同士にしか分からないものだってある。
「では、この赤いボタンを押してください。すると、火葬が始まります。どなたか、1名押してください」
父が手をあげようとしたが、「私がやります」と祖父が遮った。父は止めたが祖父の頑固さを知っているのか、黙って後ろに下がった。
「ピーーー」
無言でボタンは押され、その場にいた人たちが合掌を始める。それがマナーだと教えられてきたからだ。故人を悼む気持ちを込めて、合掌をするのだと教えられたが、祖父はボタンを押した直後、部屋を出て行った。
ぎょっと親戚たちは祖父の行動を見ていたが、私たちは知らないフリをしてそのまま合掌を続けた。
控え室で親戚たちが祖父のマナーの悪さで話が盛り上がる中、私は部屋の隅でネックレスを触っていた。
本当に死んだんだな。
人間はいつか死ぬ生き物だと頭では理解していたが、理解しているつもりだったようだ。未だに夢だと言われても頷いてしまいそうだ。
「千穂、おじいちゃんの様子見に行ってくれる?」
親戚たちの対応に追われてる母から言われ、祖父を探しに行った。
しかし、どこに行っても見当たらず、先ほどの火葬でお世話になったスタッフと会った。
「あの、前田寛はどこにいますか?先ほど祖母を火葬した際、ボタンを押した者なんですが」
「あぁ!お祖父様はあの部屋にいますよ。火葬部屋に。私共も『控え室でお休みください』と言ったのですが、離れたくないようで。恐らく今もいらっしゃいますよ」
「そうなんですね、ご迷惑おかけしました。ありがとうございます」
私は急いで火葬部屋へ向かった。
ソファーに座る祖父の背中姿が見えた。
声をかけようとしたが、祖父の声で遮られた。
「行かないで!行かないで…なんでなんだよ!」
顔は見えないが、きっと鼻水と涙、涎まで垂らしながら泣いていた。
私は祖父の横に座り、火葬が終わるまで待っていた。
〈どこまでも続く青い空〉
ベランダに出る。
〈衣替え〉
朝が肌寒くなってきたこの季節、布団から出るのが億劫になる。
音楽業界でエンジニアとして働く私にとって、服装は動きやすさ重視で決めている。
ライブやコンサートでの音響を担当したり、アーティストのレコーディングを撮り、その後修正を加えたりと、音のことならなんでも屋さんと言われるほど忙しい日々を送っている。特にライブでの音響、PAエンジニアとして働く時はせかせか動かなければならないので、ライブTシャツにジーパンスタイルが基本。
裏方なので、お客さんからは見られないし、作曲家でもないから楽曲クレジットに載らない。たまには載るが、精々映画のエンドロールで大量のスタッフの中にいるひとりのスタッフ程度だ。
「もっとオシャレしなよ」
昨日の同窓会でそれぞれの仕事の話をしていた時、港区でOLをしている女子から言われた。
確かにこの仕事に就いてから、服装なんて考えてこなかった。動きやすさ触り心地でしか選ばずに、決して、見た目で選んではいなかった。というか、そもそも休日がほとんどない。会社で寝泊まりすることなんてザラにあるし、一度家に戻り風呂に入ってからまた会社に戻ることもある。休日なんて、半日あれば良い方だ。時間は関係なく、依頼があれば仕事をする。不規則で不安定で低収入な仕事だからこそ、服装なんて気にする余裕なんてない。今のレーベルに入社して死に物狂いで勉強した。大抵は専門学校卒から入社するか、一般大学卒でアシスタントとして働くのが主流だ。最近では後者が圧倒的に多くなり、アシスタント同士でも仕事の奪い合いが始まる。それを経て、少しずつ先輩の仕事を手伝い、やっとひとりで仕事ができるようになる。
正直、港区でOLしている人になんか、こんな気持ちは分からないだろうと貶していた。
彼女はばっちりメイクをして、ネイルサロンと皮膚科に定期的に通い、コテで髪を巻き、香水をぷんぷん振りかける。しかも皮膚科は、わざわざ韓国まで行くという。
一方で私がネイルしたら機材を運ぶ時に折れてしまうし、髪を巻けばレコーディング後の修正作業の時に邪魔になる。香水を振りかければ、私自身が匂いに敏感な為集中できない。
同好会も終わりに近づいた頃、目の前の席に座る楠木と視線が合う。
「前田はレコーディングエンジニアだったよな?」
ビール片手に楠木が聞く。
「うん、そうだよ。ていうか今ではレコーディング以外もやらせてもらってるけどね。音響には変わりはないけど」
「アイドルとかのレコーディングとかってさ、『かっこいい!』とか思わないの?」
「うーん、それが思わないんだよね。そもそもこの仕事に就いたのが、音にこだわりがある自分に向いてるんじゃないかって思って目指したから。正直、顔より歌声とか、シンセって言う所謂音源にしか興味ないね」
「へー、珍しいな。音にこだわりがあるって言うのはどういうこと?」
「んー、説明するのは難しいけど好きな音があるっていうのは1つあるかな。曲中で流れてくる、イヤフォンしたらやっと聴こえる低度の低音だったり、コップをスプーンで叩く音とかが割と好きかも」
「具体的にさ、この曲の音が良いっていうのはある?」
「あーそうだね。あの、popgirlって曲、知ってる?」
「知ってる!韓国のアイドルの曲でしょ?」
「そうそう。その子のfor uっていうラップのバックで鳴ってるギターの音色が最近好きかな」
「やー、よくそこまで聴き取れるね」
「職業病的なものだよ」
「あーなるほどね。じゃあ割と歌詞よりサウンド重視?」
「そうなるね」
一気に喋ったのでハイボールをぐいっと飲む。
「楠木は会社員だよね」
「そうだよーオフィスでずっーとパソコンと向き合ってる」
彼は自嘲するように言った。
「ずっとパソコンと向き合うと肩こり酷いよね」
私もレコーディング後の修正作業はパソコンでするので共感できる。
「あれ、やばいよな!背伸びしたら背中らへんの骨がボキボキ言うもん!」
「首とかもなるよね」
まさかの肩こりで盛り上がる私たち。
しかし、今まで肩こりや腰の痛みを笑いながら話していた彼は、顔色を変え、じっと私の方を見た。
それに気づかないほどの鈍感でもないので、さり気なく「何か悩みでもあるの?」と聞いた。
すると彼は、「仕事してる時って、やっぱり動きやすさ重視で服を決めてるの?」と想像の斜め上の質問を問いかけた。
「そうだね。やっぱりTPO的なものもあるし、何より機材を運んだり、意外と動き回るからね。その時にスカートだと、どうしても動きにくいし、服装によっては『前田はあのアイドルの〇〇が好きだからファッションに気を遣ってるんだよ』って言われかねないからね」
「確かに、ライブとか行った時スタッフさんがすごく忙しそうだったし。フリフリの服装で行ったら気があるって思われたら大変だしね」
「そうなんだよね。でも、私は元々パンツスタイルの方が好きだし、ストリート系とかオーバーサイズのものが好きだったから特に何も思わなかっけど、同僚の中にはゴスロリが好きな子がいて、仕事中はゴスロリが着れないって言ってたな」
「あー、やっぱり好きな服を着て仕事した方が捗るしな。そのゴスロリの子は大丈夫なの?」
「全然大丈夫!休みの日にめちゃめちゃ着てるし、インスタに載せてるくらいだから。その子は営業の方だから土日祝日は休みだし定時退社だから、好きなことに時間使ってるよ」
「あっ、営業の方なんだ。休みとかは部署によっても変わるよね」
「変わる!変わる!私なんか久しぶりの休日だよ~楠木はどんな感じなの?」
「俺はそのゴスロリの子とほぼ同じ。会社員だしね。前田は凄いな、忙しい中、今日も来てくれたんでしょ?疲れてないの?」
「疲れてないよ!むしろ元気もらってる感じだよ。うちは制作チームだから、みんな死んだ顔だよ。会社で寝泊まりするのがざらにあるしね。そのせいで若い子は辞めていくんだけどね」
皮肉のように言った。実際、私の後輩も先月辞めたばかりだ。これから伸びる子だと思っていたが、入社してすぐに自分の好きなアイドルのレコーディングを担当できると夢を持っていた彼女にとってみれば、自分の立ち位置が気に食わなかったようだった。入社すれば、推しに会える、付き合える可能性が高まると言った下心を持って面接に臨む人は少なくない。裏方は、ファンでさえも見れないレコーディングやリハーサル、打ち合わせに同席するのだから。そう思うのは仕方がない。ただ、スタッフとアイドルの恋愛は禁止されている。これは音楽業界だけではなく、芸能界の掟である。見つかり次第、スタッフはクビになる。どんなに優秀なスタッフでも。それくらいやってはいけないことなのだ。アイドルとスタッフの信頼関係を維持するためにも必要なことだから。
楠木は聞き上手だ。だから何でもかんでも話してしまう。辞めた後輩のことも聞いてもらった。
同窓会が終わり、各々靴を履き、店の外でタクシーを呼ぶ者、彼氏を呼ぶ者。様々な中、少し離れた所にいた楠木が近づいてきた。
「これ、衣替えって言ったら変だけど、たまたま見つけてこのくらいのアクセリーだったら邪魔じゃないかなって思って。良かったら貰って。休みの日とかにでもつけてよ」
それは小指サイズの指輪だった。しかもその指輪のブランドは、私が勤めてるレーベルとのコラボ商品で、品薄状態になっていたものだ。
「えっ!いいの?」
「うん。前田のレーベルとコラボしたブランドでしょ?自分の会社の商品くらい身につけてたほうが話のネタにもなるんじゃない?」
「ありがとう!すごく嬉しい。欲しかったんだよね」
「それならよかった。今日はあえて良かたっよ、また連絡するね」
「私も会えてよかったよ。本当にありがとね」
「じゃ、俺こっちだから。体に気をつけてね」
「うん。楠木も気をつけてね」
風のように去った彼の後ろ姿を見て、貰った指輪をつけてみた。
仕事柄、港区のOLのように可愛いスカートを履くこともできないし、メイクも最低限しかできない。年中たいして変わらなくて、寒い時はパーカーを羽織るくらいだ。
けれど、この指輪は私にとっての衣替えだ。
指輪をはめ、残っている仕事を終わらせるため、会社に戻る。
いつも違う足取りで向かう。