37.5℃。平熱が低い自分にとってはそれだけでも大きなダメージだ。
視界がくらくら揺れて気持ち悪い。喉が渇いて仕方ない。何か飲まなくてはと思い枕元にあったペットボトルを手に取るが、やけに軽い。…空っぽだ。
溜息を吐く気力もない。最早なんの役にも立たないそれを雑に放り投げる。カラカラと床を転がる音がして、止まった。また部屋に静寂が訪れる。
学校を休んで一番大変なのは遅れた分を取り返す事だ。
ノートは、田中に見せてもらって。でも田中は最近教科書借りたばっかだしな。由香に見せてもらおうかな、あの子ノートの取り方綺麗だし。
…あの人、心配してくれるかな。
会いたいと思った。この心細さを埋めて欲しい。知って欲しい。知った上で、受け入れて欲しい。
そんな思い伝える勇気もないくせになぁ。
#微熱
子供達の駆け回る声、親同士の井戸端会議、学校帰りの女子高生の愚痴り合い、自動販売機の作動音。
普段気にしない雑音ともとれるそれが、やけに鮮明に、そして綺麗に聞こえる。
ぼんやりとベンチに座って木漏れ日を見つめる。冬場にしては暖かい日だ。あとで飲み物でも買ってこようかとポケットをまさぐるか、その手は空を切るばかり。そうだ、何も考えずに家を出たんだった。
それでも、なんか良いやと思えてしまうのはやっぱり柔らかな光が身体を包んでいるからだろうか。
嫌な事を忘れ去れる訳じゃない。涙が渇くわけでもない。酷く優しい太陽の下では、光に甘えて自分という存在が消えてしまうような気がした。
#太陽の下
「黄色って、好き?」
家に遊びに行った時、今流行りの対戦系ゲームをしていると、唐突にベッドに座っていた彼女が唐突にそう問い掛けてきた。そんな事を急に言われても。
俺は不思議に思ったが、彼女のやけに真剣な顔を見て一度ゲームを中断して考える。
黄色かぁ、別に好きでも嫌いでもないけど。出されたポテチをつまみつつ「まぁ好き」と適当な返事をすると、彼女はほっとしたような顔になった。俺は首を傾げたがそれ以上追求する事はなかった。
恋人になってから初めてのクリスマス。映画を見てから少しぶらぶらしつつ、イルミネーションなんか見ちゃったりして。彼女のきらきら輝く目を見るとそれだけで最高のデートになったように思える。
ファミレスで夕食を食べてから、念願のプレゼント交換だ。俺は小一時間悩んで選んだ銀色のネックレスを渡す。頬を赤らめて、「嬉しい」と言う彼女は、それから少し躊躇いつつ俺にプレゼントを手渡してきた。
黄色の、マフラー。
「本当はセーターを作ろうとしてたんだけど…」
流石に時間がなくて作れないらしかった。俺は手編みのマフラーをまじまじと見る。普段使いするにしては派手な黄色の毛糸が所々ほつれている。俺はそれを首元に丁寧に巻きつけた。
「次はセーター作ってよ」
「ふふ、頑張るね」
体が宙に浮く感覚に首筋がひやりと凍り付いた。
何にも足がつかない不安定な体。
耳元を掠める風の音。
覚束ない思考。
全てが自身を驚怖に陥れる。
散漫な思考の中には確かに後悔という二文字があった。もっと向き合ってみたら良かった。苦しむあの子に手を差し伸べてやれば良かった。
全てがスローモーションに思える。助けてと言える筈の口は驚きに開いたまま、動かない。
八月の青空を背景にあの子が立っていた。
無様な私を嘲笑うように貶すように、私を突き落としたあの子が笑っていた。
#落ちていく
まだ11月の半ばだと言うのにもう息が白くなってきた。まだ当分出すつもりのなかったストーブを苦労して納戸から取り出す。腰が痛いんじゃなかったの、と妻が心配するが、まだまだ元気だと笑って見せた。
一仕事終えて座椅子に腰掛けると、妻は見越したかのように温かいお茶を目の前に置いてくれる。
「記念日、どうしましょうか」
「俺は一緒に過ごせれば良い」
そう言うと妻は呆れたように笑う。けれど確かに幸せそうだった。ただ笑っていてくれたらそれで十分だ。
子供達が出て行ってから刺激はなかったけれど、我が家はいつでも暖かかった。
#夫婦