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12/16/2023, 2:46:19 PM

咳が止まらなかった。
頭も口も喉も首も肺もお腹も背中も腕も痛かった。息を吸うのもままならず、数ミリ開けた窓のようにひゅうひゅう喉を鳴らした。気を抜けば、窒息死してしまいそうだった。部屋に響くのは乾いた轟音。数秒先も私は生きているか分からない。
咳に苦しんでいる理由のほとんどが病原菌のせいであることは分かりきっている。けれど、それを更に苦しくしているのは親の存在であることも分かりきっていた。
小学生の私にとって、親というのは女神様にも等しかった。いつでも私のそばにいてくれて、全てを肯定してくれて、全てを守ってくれる存在。必然と子供は、親にすがるようになる。
普段あまり病気にならない私にとって、風邪というのは大きな不安の種だった。ましてやこんな咳、死んでしまうかもしれない。
私は母の元へ行った。不安だったし、泣いてしまいたくなった。いつまでも安心していられる母のそばで呼吸を整えたかった。
しかし、母は怒った。
「私に移ったらどうするの。誰が家事をするの。近寄らないで」
それは妥当な怒りだった。誰もがそうするような、そういう怒りだった。
けれど、私にとってはそれは絶望に落とされたのと等しいことだった。母を頼りに生きていた私は、「近寄らないで」という言葉に酷く反応してしまったらしい。私は隔離された無機質な部屋の中で1人泣きながら咳をしていた。時間が経てば経つほど、咳は酷くなっていった。
数時間、生命を繋いだ時だった。インターホンがなった。時計を見ると午後の3時。ちょうど学校が終わった頃らしい。クラスメイトがプリントを届けに来てくれたようだ。
何やら玄関で、母とクラスメイトが話しているようだ。壁が薄いうちの家は、ほとんど全ての会話を聞き取ることが出来る。
「あの、良かったら一度会わせて貰えませんか?」
「でも貴方に移してしまったら申し訳ないわ」
「少しだけでいいので」
「でも……」
「お願いします 」
母はすぐに折れて、静かになった。恐らく、クラスメイトが私の部屋に向かっているのだろう。
彼の部屋のノックを、咳で応じた。
「大丈夫?」
私は咳を交えながら「ダメかもしれない」と伝えた。彼は私の背中にやんわり手を添えた。
「でも、こんなに近くにいたら君も風邪になっちゃうよ」涙目の私は言った。
「いいよ」ぼやけた顔の彼は言った。
「ダメだよ」私は言った。
「そしたら、二人で一緒に苦しもう」
彼は笑っていた、と思う。
10分ほどして、私の咳はだいぶ落ち着いてきた。彼がずっと背中をさすってくれたおかげで、母から貰い損ねた安心感を感じることが出来たのだろう。
ありがとう、と口にしたが、彼はもうそこにはいなかった。
部屋の中には、私しかいなかった。
窓から夕日が差している。

12/15/2023, 2:42:57 PM

僕は、ぼんやり頬杖をつきながら、窓を眺めた。
ガラスを介してみる空はどんより重く、今にも落ちてきてしまいそうだ。しかし、雨は降っていない。
遠くでは厚着をした親と、その前を駆け抜ける比較的薄着の子供の姿があった。近くでは窓に結露している雫が見えた。部屋の空気は暖かいにも関わらず、指先は死体のように冷たい。試しに窓を開けて、息を柔らかく吐いてみた。暖かい息は白く可視化された。そのまま消えていった。そんな日だった。
元々こっちは雪の降る地方では無い。今流行りの異常気象によって、10年前から降るようになった。
僕は毎年、初雪を確認している。幼い頃に見れなかったからでも、雪が好きな訳でもない。
ただ、1人の女の子を思い出すために。
彼女の名は雪と言った。当時は17歳と言ったところか、まだ若いにもかかわらず病院で毎日を過ごしいた。雪のような女の子だった。肌はやけに白く、体も細かった。触れたら直ぐに消えてしまいそうで、儚さとも違う脆さがそこにはあった。
彼女と幼馴染という訳でもない。長年の付き合いという訳でもない。恋をしていた訳でもない。友人だった訳でもない。その日、初めて出会った。そしてそれ以来会うことは無かった。
目的は、クラスの配布物を渡すだけだった。雪はそれを貰うと静かに微笑み、僕にこう語りかけた。
「雪って、見た事ある?」
僕は静かに首を振った。
「否、ない。僕は生まれも育ちもここだからね。存在や形形状は写真で見たことがあるからわかるのだけれど、それがどのくらいの速さなのか、大きさなのか、冷たさなのか。まったく分からないんだ」
彼女はまた薄く笑った。
「そう、だよね。私も、雪って名前なのに雪を見た事がないんだ。でもね、今日は雪が降るかもしれないんだって」
彼女は4人部屋に居たが、彼女以外に人はいなかった。おかげで彼女は窓際のベットから外を眺められる。彼女はずっと窓の外を見ていた。
「せめて、死ぬ前には見てみたいな」
けれど、結局その願いは叶わなかった。その日に雪が降ることは無かったのだ。そして、数日後に雪は亡くなってしまった。
もうあれから10年が経つ。僕はまだ、雪を見る。
なんだか忘れてはいけないような気がするから。