咳が止まらなかった。
頭も口も喉も首も肺もお腹も背中も腕も痛かった。息を吸うのもままならず、数ミリ開けた窓のようにひゅうひゅう喉を鳴らした。気を抜けば、窒息死してしまいそうだった。部屋に響くのは乾いた轟音。数秒先も私は生きているか分からない。
咳に苦しんでいる理由のほとんどが病原菌のせいであることは分かりきっている。けれど、それを更に苦しくしているのは親の存在であることも分かりきっていた。
小学生の私にとって、親というのは女神様にも等しかった。いつでも私のそばにいてくれて、全てを肯定してくれて、全てを守ってくれる存在。必然と子供は、親にすがるようになる。
普段あまり病気にならない私にとって、風邪というのは大きな不安の種だった。ましてやこんな咳、死んでしまうかもしれない。
私は母の元へ行った。不安だったし、泣いてしまいたくなった。いつまでも安心していられる母のそばで呼吸を整えたかった。
しかし、母は怒った。
「私に移ったらどうするの。誰が家事をするの。近寄らないで」
それは妥当な怒りだった。誰もがそうするような、そういう怒りだった。
けれど、私にとってはそれは絶望に落とされたのと等しいことだった。母を頼りに生きていた私は、「近寄らないで」という言葉に酷く反応してしまったらしい。私は隔離された無機質な部屋の中で1人泣きながら咳をしていた。時間が経てば経つほど、咳は酷くなっていった。
数時間、生命を繋いだ時だった。インターホンがなった。時計を見ると午後の3時。ちょうど学校が終わった頃らしい。クラスメイトがプリントを届けに来てくれたようだ。
何やら玄関で、母とクラスメイトが話しているようだ。壁が薄いうちの家は、ほとんど全ての会話を聞き取ることが出来る。
「あの、良かったら一度会わせて貰えませんか?」
「でも貴方に移してしまったら申し訳ないわ」
「少しだけでいいので」
「でも……」
「お願いします 」
母はすぐに折れて、静かになった。恐らく、クラスメイトが私の部屋に向かっているのだろう。
彼の部屋のノックを、咳で応じた。
「大丈夫?」
私は咳を交えながら「ダメかもしれない」と伝えた。彼は私の背中にやんわり手を添えた。
「でも、こんなに近くにいたら君も風邪になっちゃうよ」涙目の私は言った。
「いいよ」ぼやけた顔の彼は言った。
「ダメだよ」私は言った。
「そしたら、二人で一緒に苦しもう」
彼は笑っていた、と思う。
10分ほどして、私の咳はだいぶ落ち着いてきた。彼がずっと背中をさすってくれたおかげで、母から貰い損ねた安心感を感じることが出来たのだろう。
ありがとう、と口にしたが、彼はもうそこにはいなかった。
部屋の中には、私しかいなかった。
窓から夕日が差している。
12/16/2023, 2:46:19 PM