世界は彼を子供ではいさせてくれなかった。強くあれと無責任に幻想ばかりを押し付けて無垢な感情の何もかもを彼から取り上げ、そうして彼を大人にしてしまった。まだ柔らかさの残る輪郭に世界を見下ろす昏い眼差し。アンバランスなそれが私は恐ろしい。彼が私の知らない誰かになっていく。
どうしたら彼を救えるだろうか。
私は考える。考えて、考えて、そうして思いついた。引きずり下ろせばいいのだ、彼をあの冷たい玉座から。彼の持つ全てを私が代わりに背負って彼を自由にすればいいのだ。
天啓だと思った、もうこれしかないと。私の頭は冴え渡っている。今ならなんでも出来そうな全能感に溢れて思わず哄笑した。
ああ、愛しき彼の人よ
首を洗って待っていろ、私が取り戻すのだ。彼の天色が再び私を優しく見つめる時を。
何もかもが上手くいってまた手を取り合える日が来たならば、月明かりを頼りに星空の下、ふたりだけでワルツを踊ろう。
昔から周りのものに興味が無い人で「なんでもいいよ」というのが彼の口癖だった。
夕食のメニューの希望を聞いても、どっちが似合う?と服を見せても。なんでもいいよと彼は言うのだ。
もしかしたら私のこともたまたま告白してきた女を「なんでもいい」の精神で受け入れただけなのかもと不安になる日もあるが、それにしては随分と穏やかな目で私を見るので私はますます分からなくなる。
よく晴れた夏の朝のことだった。いつも通り私が作った朝食を食べる彼はいつもと違って何処かそわそわと落ち着かない。「話があるんだ」彼は言った。
「なあに?」
私はテレビに視線を向けたまま返事をした。今日の占いは2位。いつもと違う一日になるかも、と原稿を読みあげるアナウンサーの声が聞こえる。
占いを信じているわけではないけどついつい見てしまう。今日の目玉焼きは綺麗に焼けた。理想的な半熟具合。
「おれと結婚して」
箸から目玉焼きが滑り落ちた。時間が止まったように感じられて、私は声も出せずに彼を見つめるしか無かった。
「え、え?!」
「おれと、結婚してください」
彼が持っていたのはリングケースでそこには美しいエンゲージリングが収まっている。
ケースを持つ彼の手が微かに震えているのに、私は気づいてしまった。
「私でいいの?」
「いつもいつも"なんでもいい"ばかりだから私のことなんてなんとも思ってないのかと」
私が告げた言葉に彼は居心地悪そうに顔を逸らした。頬をかいて逡巡したのち、
「君が選ぶのならなんだって構わないんだよ」
彼の耳が真っ赤に染まっているのが見えて、私は思わず笑ってしまった。差し出されたエンゲージリングを彼の手ごと私の手で包んだ。
「私でいいの?」
「君がいいな」
忘れられないと恋が泣いている。
世界でただ一つ、幸せな恋でした。
春のあたたかな陽気があなたを何処かに
連れ去ってしまわぬように
そっと名前を呼んで
壊れないようにあなたの手を取るの
同じ痛みを知る人よ、
いつか傷が癒えるまで私と共に生きてくれ