弐式

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3/24/2024, 6:38:02 AM


いつだって、彼は私を特別だと言ってくれた。

言葉で、行動で、視線で。


それなのに、彼のさいごに私も連れていってくれなかったのはどうして。

3/22/2024, 12:05:51 AM


「可愛く描いてよね」

彼女の言葉に私は曖昧に笑った。


放課後の美術室にはスケッチブックの画用紙と鉛筆が擦れる音だけが響いている。椅子に座り窓の外を眺める彼女と彼女を具に観察しデッサンを進める私の間に会話はない。

そうして数十分が経った頃___デッサンはもう仕上げの段階に入っている___彼女がぽつりと言った。


「どうして私だったの?」
「え?」
「デッサンのモデル、どうして私に頼んだの?」


それは至極当然の問いだった。デッサンのモデルを依頼した時、即答で快諾したものだから事情や何やらを説明するのをすっかり忘れていたのを私は思い出した。

私は答えに迷ってしまった。本当の理由をそのまま伝えてしまったらきっと彼女は困るだろうと思った。なかなか言葉の出ない私に彼女は仕方ないという顔で「まあ、いいや」と言った。

私を見つめていた目が再び窓の外を向いた。首を動かしたと同時にさらりと揺れる長い黒髪。痛みなどひとつもない艶のある柔らかな絹。

私が彼女にモデルを依頼した理由は、この髪だ。

美しいものを形に残すことが私が絵を描く最たる理由である。私は彼女の髪を美しいと思った。
なのに。

彼女は明日、髪を切るのだと言った。教室で友人にそう告げる彼女の言葉に私は耳を疑った。あんなに綺麗な髪なのに!しかし彼女に髪を切るななどと、言えるはずもない。

風に揺れるあの美しい黒髪をどうにかして形に残したかった。悩みに悩んでデッサンのモデルという体でなけなしの勇気をもって私は彼女に談判したのだ。

ぴたりと筆が止まる。自分の思う通りの出来になった。止んだ音に彼女が「終わった?」と聞いた。私は小さく頷き、使った鉛筆やらを仕舞い始める。

その時、一際強い風が吹いた。換気のために開けていた窓から吹く風に彼女の髪が靡いた。
降り注ぐ太陽の光がキラキラと反射してそこだけ映画のワンシーンのように輝いて見えた。

運動部の掛け声も最終下校を伝えるチャイムも何もかもが遠くで聞こえる。今、世界で彼女と私しかいない錯覚に陥ってどうしてだか無性に泣きたくなるのだ。

静寂を打ち破り彼女は私に言った。

「ねぇ、可愛く描いてくれた?」

3/19/2024, 11:40:47 AM


あなたを見て胸が高鳴る度

私が私でなくなる予感がする。


こんなはずではなかったのに、


あなた以外のことなんて
考えられなくなっている!

3/17/2024, 1:38:05 PM


「泣かないんですか」

無愛想で投げやりな言葉だった。決して大きな声ではなかったのにぱらぱらと降る雨の中、傘を差していてもはっきりとそれは私の元に届いた。

「泣かないよ」

「なぜ」

責めるような声音だった。目の前の青年は彼の後輩だったと聞いているから今回の私の態度に思うところがあるのだと思った。良い後輩だ。

「彼ね、私が泣いてるところを見るのがすごく苦手だったんだよ」

私が仕事で失敗した時、喧嘩をした時、感動する映画なんかで泣いた時彼は眉を八の字にして大慌てで私のことを慰めるのだ。ハキハキと喋るいつもの姿はなく、狼狽する珍しい姿に私が笑ってその場は収まる。
一人っ子で幼少を大人ばかりの環境で過ごしていたのだと聞いた。だから誰かが泣くとうまく対応できなくて苦手なのだと。

「それに、彼にはとびきりいい思い出だけを持っていて欲しいんだよ」

それは、きっと泣き顔ではないはずだ。彼との思い出は幸せで満たされているべきだと、私は思っている。だから、それで自分が僅かにでも救われるとわかっていても泣くことだけはしないと決めていた。

「すみません、俺___」

「いいえ、貴方みたいな後輩がいてくれて彼も幸せだと思うよ」

喪失感は消えない。しかし、大切な人を思ってくれていた存在がその痛みを和らげてくれる気がした。彼は確かに、ここにいたのだ。

「そろそろ帰ろうか」

はい。応えを確かに聞いて私はその場を後にした。彼の好きだった、小さな公園。
彼の骨は一欠片も残らなかったので。


3/17/2024, 7:00:55 AM


姉の背中に隠れてこちらを伺う姿ばかりが印象に残っている。姉に促されてやっと名前を名乗ったかと思えばすぐさま隠れてこちらの反応を気にする姿がどうにもいじらしく、庇護欲のようなものが自分の中に芽生えるのを感じた。

「____!」

だから、姉から離れてひとりでこちらに声を掛けたことにすこぶる驚いたのだ。

こちらを見る目に以前のような怯えや気まずさはなく、ただ真っ直ぐに射抜くように見つめられてこちらの方がたじろぐくらいだった。

「何か用かな」

動揺を悟られぬように返事をした。何を考えてるか分かりずらい、と周囲から苦言を呈されるこの仏頂面もこの時ばかりは役に立つ。

「わたし、勝ちます」

「あなたには絶対に負けません」


強い意志の籠った瞳だった。言いたいことだけを伝えて颯爽と去る背中をなんとなく見つめていた。1週間後に控えたトーナメント戦の話だ。今は予選の最中で、彼女は順調に駒を進めているらしい。

入学当初の印象と今では随分と印象が異なる。それは自分だけでなく他の生徒も感じていることで彼女の噂はあまり聞いていていいものでは無い。

恐ろしい、と思った。
彼女は間違いなく決勝まで来るだろう。予選の試合の鬼気迫る様子を思い出して冷や汗が頬を伝った。強者揃いの決勝を進み、そうして私の前に
立ちはだかるに違いない。あの強い視線で見つめられることが、何よりも恐ろしい。

私は彼女のことを見誤っていた。力のない、有象無象の一人だと侮っていたのだ。自分を脅かす存在にはなり得ないと。しかし、現実はどうだ。

彼女は臆病者ではなかった。ただ虎視眈々と周囲の様子を伺いながら機会が来るのを待っていたのだ。


私を玉座から引きずり下ろす、その機会を。

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