「可愛く描いてよね」
彼女の言葉に私は曖昧に笑った。
放課後の美術室にはスケッチブックの画用紙と鉛筆が擦れる音だけが響いている。椅子に座り窓の外を眺める彼女と彼女を具に観察しデッサンを進める私の間に会話はない。
そうして数十分が経った頃___デッサンはもう仕上げの段階に入っている___彼女がぽつりと言った。
「どうして私だったの?」
「え?」
「デッサンのモデル、どうして私に頼んだの?」
それは至極当然の問いだった。デッサンのモデルを依頼した時、即答で快諾したものだから事情や何やらを説明するのをすっかり忘れていたのを私は思い出した。
私は答えに迷ってしまった。本当の理由をそのまま伝えてしまったらきっと彼女は困るだろうと思った。なかなか言葉の出ない私に彼女は仕方ないという顔で「まあ、いいや」と言った。
私を見つめていた目が再び窓の外を向いた。首を動かしたと同時にさらりと揺れる長い黒髪。痛みなどひとつもない艶のある柔らかな絹。
私が彼女にモデルを依頼した理由は、この髪だ。
美しいものを形に残すことが私が絵を描く最たる理由である。私は彼女の髪を美しいと思った。
なのに。
彼女は明日、髪を切るのだと言った。教室で友人にそう告げる彼女の言葉に私は耳を疑った。あんなに綺麗な髪なのに!しかし彼女に髪を切るななどと、言えるはずもない。
風に揺れるあの美しい黒髪をどうにかして形に残したかった。悩みに悩んでデッサンのモデルという体でなけなしの勇気をもって私は彼女に談判したのだ。
ぴたりと筆が止まる。自分の思う通りの出来になった。止んだ音に彼女が「終わった?」と聞いた。私は小さく頷き、使った鉛筆やらを仕舞い始める。
その時、一際強い風が吹いた。換気のために開けていた窓から吹く風に彼女の髪が靡いた。
降り注ぐ太陽の光がキラキラと反射してそこだけ映画のワンシーンのように輝いて見えた。
運動部の掛け声も最終下校を伝えるチャイムも何もかもが遠くで聞こえる。今、世界で彼女と私しかいない錯覚に陥ってどうしてだか無性に泣きたくなるのだ。
静寂を打ち破り彼女は私に言った。
「ねぇ、可愛く描いてくれた?」
3/22/2024, 12:05:51 AM