仲間
友人より仲間が欲しい。
付かず離れず、一つ目的に集結する人間関係。いい意味で腹八分目な関係性ができる人間関係のジャンルこそ、「仲間」にあるのではないか。
友人ほど脆くなく、仕事仲間ほど希薄ではないところが魅力だと思うのだ。
友人なんてものは、心の癒しになるときもあればステージが変われば弱みを握った厄介なポジションになる時もある。私は友人というものは、3-4年おきに人間関係をガラリと変えるのが精神衛生上とても良いと感じている。
今、自分が達成したい目標に共に自己研鑽し合える仲間がほしい。
手を繋いで
私はいつだって都合がいいから、神様に祈る。
私の寿命、5年渡すから、私の飼い猫の一生を長生きさせてください。5年以上でもいいなら、もっと。
私の家の猫は、心臓が一回り小さく産まれてきた。
大型猫のメインクーンなのに、一般的な猫よりも小さい。小さな心臓はトクトクと早く鳴り続けている。
私はその心臓の近くに耳を置いて聞く。
もし、心臓が鳴る回数が決まっているならば、
できるだけ、できるだけ、ゆっくり動いてほしい。
その最後の回数に辿り着くまで、できるだけ、ゆっくり。
お互い言語も違うから、何を思っているのかわからない。だけど、いつも鈍臭くてビビリなくせに、悲しい時はいつも、体の一部をぴたりとくっつけてそばにいてくれる。たった3キロ弱しかないその重さに、私は幾度となく救われてきた。
心地よさそうに伸ばす小さな肉球のついた手を、指先で触る。再び心臓の音を確かめるように、耳を近づける。
神様、私の寿命あげるから、もう少し一緒に居させてください。
トントントンと音を鳴らす心臓とその体温を、私は忘れぬように、確かめるように、精一杯感じた。そして、小さな肉球に、私の命が移るように、叶わぬ願いを込めて、握った。
ありがとう、ごめんね
部屋の片隅で
人生のどこかで躓くであろうことは、わかっていた。
順風満帆に人生は進んでいかないのだという常識的な話ではなく、自分は「そちら側」の人間ではないということを私は理解していたのだ。
金か権力か、保護者の加護を受けて、嫌味のないまっすぐな道を歩んでいる同級生を見るたびに、私はそちらの道にはしたくてもできない不器用さを抱えていることを知っていた。たとえ周りが羨むような環境であったとしても、私は自分が抱えている内面を治さないかぎり、世の中から炙り出されるのではないかということを感じ取っていた。
身長や体重は、みごとに日本の平均値ジャストであり、また学業も人並みだった。可もなく不可もなく、というあだ名があれば私が1番似合っているに違いない。極め付けに、「あの人に似てる…!」という前置きに期待させられて、いつも言われるのは、幼稚園の同級生だとか、小学校の友達だとか、従姉妹だとか、「しらねぇよ」という感想以外何も言えないようなことをよく言われてきた。顔まで日本の平均値ともなれば、もはや外国人向けのハンドブックにでも日本人の主な例として載せてほしい。
そんな何にも特別ではない私が、おおよそのレールから外れて、ある種の「特別」になってしまったのはいつからだろうか。私は今日も部屋の片隅で、過去の自分に土下座している。
逆さま
今まで抱えていた固定概念や、
真実だと思い込んでいたことが、
全く別の考え方によって気付かされた時、
ひどく安堵して、救われる。
おおよそのことは
厳しい一面も確かであるが、
またその実、世の中で言われることの
逆の位置に「生き方」が存在していることも、
また確かなのではないか。
そうでなかったとしても、
そうだと信じて生きていきたいし、
これだけは確信を持っている。