微熱
ぐるぐるぐる。
頭が回る。
37.5度という、中途半端な熱ですら私には厳しい。
内臓に冷風がかけられているように寒い。
また、胃だけに地震が起きているように不安定で、あるはずの腸がそこに無いような感覚になる。
心細く、力が入る。
この情けない奴め、と自分に鞭を打っても、
身体のしんどさは嘘はつけない。
太陽の下で 途中
炎天下の夏、
私の茶色のパンプス先には、
ミミズが干からびて死んでいる。
都内ではしばらく見なかったこのミミズは、一体どこから迷い込んでしまったのだろう。これほどまでに人が多いのに、見事に避けられたミミズは、綺麗に干からびていた。
私は目の前のミミズを見た。呼吸するだけでだらだらと毛穴から汗が吹き出しているのを感じながら、私はそのミミズを見ていた。
お天道様のもとで、嘘偽りのない人間でいなさい。
よく、道徳の教科書や幼児向けの絵本などに書かれていそうな文言は、大人の社会においてもしばしば使われる。特に、嘘、といった項目においては、わかりやすい。大人になれば、嘘もつかねば生きるのは困難である。嘘をつき、人を騙しては、また騙されて傷つく。
ある人も、嘘をついて生きているくせに、人が嘘をついているのを見ると、途端に被害者面しては人を責める。
就職活動の面接も、嘘の真骨頂のようなものである。一度社会を知れば、マスコミや政治、利害関係にあるすべての人間が、「嘘」で塗り固められているように見えてくる。その中で、懸命に真実の人間でありたいと踠けば苦しくなる。なぜならば、嘘をつく人間を否定することは、いささか、今を生きる人間を傷つける。
私の家族が信仰している宗教もまた、嘘について敏感である。嘘だけではない。食べ物を残せば地獄に落ち、人を悪く言えば地獄に落ちる。子供でもそれなりに思いつきそうな悪事をすれば、神の裁きを受ける。そのような英才教育下でそだった私は、見事に虫一匹も殺せない子供となっていた。
とある日、小学校の教室にハエが入った。
私は二重窓の間にハエを追いやった。片方を少しずつずらしながら、外側の窓を開けていく。ハエは、ばちばちと体を不器用に窓にぶつけながら飛び立った。
私は、虫が大嫌いだった。鈍臭く鈍い音を立ててぶつかる羽音が嫌で顔を顰めていた。
私は、今助けている目の前の命を価値のあるものだとは感じられていなかった。ただ、この一匹を殺す自分自身と、じっと見つめる「カミサマ」の存在に子どもらしく畏怖していた。それは、私の心とは一切リンクしていない行動だった。
「なんで殺さんの」
一部始終を見ていたクラスメイトの男の子に聞かれた。私はなんとなく焦った。何にも悪いことをしていないのに、私は悪いことをしている気分になった。
「死んじゃうから」
「いいじゃん、べつに」
「よくない」
「なんで?」
私は、コイツ嫌いだなと思った。人の気持ちも考えずに、間髪入れずに質問をしてくる。ただ、当時の成熟しきれていない私は、自分の感情を理解するほどの器量がなかった。
「だって、かわいそう、だもん」
自分で言っておきながら、少しだけ気味の悪さを感じていた。本音は、だって、怒られるんだもん、という方が近い。
ふうん、と興味のない返事をして、クラスメイトはどこかへいなくなった。小学生の関心ごとなど、5分で終わる。大人もこうなれば、世の中は平和である。
秋風
子供の頃、秋という季節だけで心が弾んだ。紅葉の落ち葉が敷き詰められた道に雨が降れば、無機質なコンクリートが鮮やかな絨毯に変わる。それだけで、つまらなかった毎日が一瞬で輝き出すように感じた。秋風が吹き抜けると、冷たい空気が肺に染み渡り、澄んだ酸素が身体を巡るのを感じた。空はどこまでも高く、澄みきって、雲ひとつない快晴が私を外へと誘ってくれる。ほんのりと肌寒い気温が、冬の訪れを期待させ、子供の私はその季節のひとつひとつを心から楽しんでいた。あの頃は、ただ秋という季節だけで、生きていることが嬉しかった。
それが今の私はどうだろう。万年モラトリアム。いつまでたっても大人になれないくせに、世の中に不満ばかり並べて、自分の思い通りにいかない一日を、ただ苛立ちながらやり過ごしている。あんなに大好きだった「秋」の喜びなんて、もうとっくに忘れてしまっていた。覚えていたいことを簡単に忘れてしまい、忘れたいことだけがいつまでも頭の中に居座っている。まったく、世の中というのは理不尽にできているらしい。
父の葬式の帰り道、ふと見上げた空は晴れ渡り、紅葉が鮮やかに道を彩っていた。守ってくれる人はもういない。もう私の人生をどうにかしてくれる人はいない。皮肉なものだ。両親がいなくなってから、やっとその愛に気づいた。まるで、いざ失ってみるまで、その存在すら意識できなかったように。もっと早くに気づけていれば良かったのだろうが、こういう肝心なことには、なぜか後悔がつきまとうものらしい。今さらどうしようもないけれど。
涙で腫れた頬に、冷たい秋風がそっと触れた。その風が私の輪郭を撫でるように通り抜けると、不意に「私はここにいる」と、何の理由もなく思った。どこにも行けないこの私が、ただここにいる。
どうしようもない自分を抱きしめるようにして、無我夢中で走り出した。息が切れるまで走って、立ち止まったとき、ふと手元に一枚の紅葉が舞い降りてきた。まだ木に残るべきだったような、赤々とした不思議な葉だった。手のひらでじっと見つめると、「美しいなぁ」と思った。私は泣いた。この涙は、漸く身近な物の有り難さに気づいた自分の情けなさでもあった。
失うものを失って、私は気がついたのだ。両親がもういないという現実の中で、あの二人がどれほど私を愛してくれたかに気づき、その愛が今も私の中に残っていることを知った。
秋風が胸いっぱいに広がり、ただ「生きている」ということだけを懸命に感じた。たったそれだけが、今の私を生かしている。目頭から熱く溢れた涙が、秋風に触れてはひんやりと温度を変えていた。
24.11.15 創作-秋風
秋風という言葉、あまり馴染みがなく難しかったです。
そして今日風呂場にゲジゲジでました。怖かったです。
スリル
私の高校は仏教校だった。宗派は浄土真宗であり、通常の高校にはない宗教の時間があった。体育館には宗教の式典が行えるように、ステージの壁面には親鸞聖人が隠れている。どういう仕組みでそれが表に現れるのか知らないが、普段は一般的な体育館のステージとして化けていた。
学校の怪談といば、定番はどこになるだろう。
私が実際耳にしたものは、体育館前通路の大きな鏡、普段生徒が使用しない位置にあるトイレ、階段下の掃除用具室。そして、一際意外だったものがある。
それは、家庭科準備室と繋がった、「多目的室2」
執筆途中
ホラー
実体験なので、思い出して途中で怖くなってきた。
もっと明るい時に続きを書こう
飛べない翼 途中
私が生意気な学生だった頃、教育実習生が大嫌いだった。その感情の内訳はさまざまであるが、大部分を占めていたのは、大学生というおちゃらけた生態とその若さゆえの未熟さや初々しさが嫌いだったのだ。だから、どんなイケメンだろうが美人だろうが、くる奴は全員嫌いだった。私はいかにも、職場にいる嫌なお局上司よりも遥かにタチの悪い、未経験クレーマー高校生だったのである。
この心理はどこから来ていたのかわからない。社会人も大学生もどちらも経験した今となっては、当時の自分のような高校生がいたらぶっ飛ばしていた。高校時代の私は、ここがまさにいやらしいところではあるが、内心はドロドロと汚い感情が渦巻いていたにも関わらず、表面上では優しく明るい人間を演じていたのである。そんなん生きとる上で当たり前だろ、と言われればその通りなのだが、それを加味しても内面が荒んでいた。誰の命令も聞きたくなく、誰の指示も受けたくない、私は努力したくないのよ、そうじゃなくても私は特別なの!と叫ぶあまりにも空っぽな人格だけがそこにはあった。
なぜ、そのような女子高校生だったのかと言えば、私の人生史を辿るには、自分でもまだ時間がかかりそうなのである。落ち着かなかった家庭環境をひとずつ紐解いていっては、あまりにも要素があるのに、言葉にすれば酷く言い訳がましくなる。私はこんなに大変だったの、傷ついたの、と、理解されるように求めている自分を自覚することは私にとって酷く惨めなのだ。なぜならば、それは経験していなければ到底理解も共感なども及ぶことではないと知っているからこそ、私は傷つきたくないあまり他者に自分の経験を話せないでいた。
そんな私は、私は誰よりも子供だったのに、大人びていた。反抗期などなく、そしてその実、万年反抗期であった。私は人と比較することでしか安心できず、そして常に不安だったのである。私は私以外の人間が大嫌いで、私は私が一番大嫌いだった。
そのような自分自身と決別したのは、社会人になってからだった。世の中を恨み、文句を言い、誰よりも悪口を言った。嫌われる前に、私が周りの人を嫌いになった。人が離れた後、私はみんな消えてなくなればいいのだと思った。散々汚い感情を撒き散らした後に気がついたことは、自分がいなくなった方がはやいということだった。そこまで成り下がった後に、ようやく私は気がついたのである。なんの中身のない自分自身に。
今まで馬鹿にしていた綺麗事が、身に染みてしまう。それは、過去に自分が、いつのまにか、してしまった罪と対面することでもあった。
愛しましょう、人を大切にしましょう、なんて、私は自分のことで精一杯だから黙ってよ!と、いつもバカにしては遠ざけていた。私は内面が最低なんだから、見た目は綺麗でいないとと、外側を固めた。BMIが下がっても、二重の幅が広がっても、変化したのは呆れるほど意味のない人の目線だけだった。私の人生はむしろ、自分を隠すことに必死になっていたのだ。
自分は何をしたいのか、どういきたいのか全くわからなくなった。いっそのこと、阿弥陀籤か何かで決めたかった。いつからこんなにも人生のサイコロが間違ったのかわからなかった。自分がどうしたらいいのかわからなかった。傷つくのがただ怖かった。
私は、自分の抱える罪悪感と、悔しさと、おおよそ思いつくチンケなゴミ屑みたいなどす黒い感情に押しつぶされていたのだ。都会の人混みで私はひとりぼっちだった。
自分は1人だったことを自覚した時、私は自分に何もないことを知った。みんなにあるものが、ない、ということを私はその時初めて自覚したのである。
空っぽなこころを認めざるべく、嘘をつき虚栄心だけで生きていたことを認めた。情けない生き方をしていたのは、過去に所以するものではなく、今まさに自分自身なのだと、私は自分で納得した。
そのとき、私は自分の背中には、美しい翼などなく、小さく見窄らしく、枝のような翼しか自分には残っていないことを直視できたのである。それは剥き出しの骨のようである。手入れもされず、守られず、大人になってしまった羽。私が思うように人生を操縦できていないのは、私には十分な羽のついた翼がないことを、私が知らなかったからだった。この翼はなるべくしてこの形をしていたのである。そして、もう、自分が思うようには飛べないことを、私は知った。
飛べない翼-創作
これをもっと具体的なストーリーにした話を書きたいです。
最後はもっとポジティブにしたいです。
人って、疲れた時が本性出るとかよく聞きますが、
疲れてる限界なときって、逆に1番本性からかけ離れた別人格ですよね。最低でも生きてればそれでほんとに良いんだよなぁ…と、思いました。だって、みんな人間だから清く美しく生きる必要もないんだよね。生きるのに必死だもん。私は、未熟のまんま大人になった感じが否めないのですが、あまりにもガキな自分と共に、少しずつ大人になれるように生きていこうかなと最近少しだけ思えるようになりました。人にどうこうしたい、とかいう慈善精神はありませんが、自分の内面に心の底から自信が持てるように、人に愛情を持てる人になりたいなと最近思いました。飛べない翼というお題を見た時、カスだった当時の自分が浮かびましたが、遅くても今から始める行動や言動のひとつひとつが大きな翼になれば良いなと思います。
これを創作で書きたいなぁ。もはや創作じゃなくてエッセイになりそうだし、最近境目がなくなってきてるなぁ…