行かないで
母が失踪した。変な話だが、母親の失踪は慣れたものだった。ある日忽然と姿を消し、2.3年後に姿を現す。破天荒な女の人だった。
母は3年前に再び姿を消した。
家には父と兄と私で暮らしている。
お坊ちゃん育ちの昭和生まれの父親と、破天荒な阿波弁を流暢に話す母親はよく喧嘩をした。毎日喧嘩してよく飽きないもんだなと感心するが、お互いがヒートアップすると誰も止められないくらいバイオレンスな結果になる日もあった。お互いの心のキャパシティを超えたところで、母親は嵐の如く去り、現れ、また去っていくのだった。
母にとってこの家庭という小さな箱は窮屈で仕方なかったのだろうか。それとも、まだ経験していない母という生業は想像を絶するものだったのだろうか。
父と母は恋愛結婚であったが、どちらとも何かと闘っているような分かり合えない苦しさを側から感じていた。
母の出身地から遠く離れた嫁ぎ先で母は決して方言を譲らなかった。母と一緒に母の地元に帰った時、なんだか地元の方言を聞いてるとほっとする、と言った安堵の表情が忘れられない。その顔にいつもの眉間の皺はなかった。私は父と母の両者の味方であり、すなわちそれはどちらの味方でもなかった。ただこの家庭において、2人の娘であることだけが繋ぎ止める唯一の概念のような自覚を持っていた。そこにはなんの自我もない、ただ存在しているような欠落した人格と罪悪感があった。
母がいなくなっても平然でいられるのは、
そのうち帰ってくるだろうという過去の記録から推測するものと、定期的に送られてくるクレジットカードの明細があったからだ。生きているなら、それでよかった。
小さな頃は母がいなくなるのがとても寂しくて、1人泣く日もあったが、いつしか子供じみていて泣くのをやめた。母がいなくても私は泣かなくなった。だけど、いつでも母がいなくなると寂しさだけは消えなかった。
母が失踪してから、私は中学を卒業した。
高校に上がって、私は少しずつ大人になっていった。
育ちざかりで肥えた体はだんだんと平均値になり、
人並みに恋をして、人並みに勉強した。
母が知らない数年間の間で私は随分と変わった。
毎朝早起きをしてお弁当を作り、授業を受け、部活をして、帰宅する。そんな日々を淡々と送り、高校3年生の11月に母は何食わぬ顔で帰ってきた。
正確に言うと、帰ってきていた。私が学校から帰宅したところで、先に家にいたのである。
「あ、おかえり」
母が言った。
突然のことで驚いたが、ただいまと返した。
「お母さん、帰ってたんだ。久しぶり」
今まで何してたの?と純粋に聞こうと思ったところでやめた。もし聞きたくない内容だったら嫌だったからだ。母と会うのは3年ぶりだったがとりわけ気まずくもなかった。これが親子か。それか私の心が死んでいるのか。
キッチンテーブルで地方の情報雑誌を見ていた母が、不意に言った。
「お母さん、大学いっとったんよ」
「え、大学?どこの?」
「奈良の」
「へー。奈良いたんだ」
大学?!お前行くの2回目やろ!と言う予想外の話の展開に驚く気持ちと、大学行ってたのかよかった…という謎の安堵感に包まれた。資格取得のために大学に行ったそうだった。60代母の清らかなキャンパスライフを聴きながら、私は白湯を啜った。なんとなく恋愛の話が出なくてよかったなと思った。まぁ出るわけないか。ひとしきり話して満足した後、今度は私のターンになった。
「あんたは何しとったん」
「いや、なんも、普通」
自分の話をするのは昔から苦手なので、母の話に切り替えたい。
「それよりさぁ、お母さん資格とって何するの。1人で暮らしてくの?」
「いやぁ、まだ就職先とかは決まっとらんのやけどな、まぁいずれ1人になってもやっていける自信が欲しかったんよ。そうなったら、あんたら2人を連れてどこでも行けるけんなぁ」
連れてけるって、私来年大学いくよ。
東京行って一人暮らしするし。お母さんがいない間、私結構大人になっちゃったんだけど。
「わたし来年から東京いくよ。大学。地元にはもう帰らないと思う」
「ほうなんけ。そら、さみしいなぁ」
少し沈黙が流れた。寂しいなんて、私は母に言ったことがなかったのに、母は平然と言うのであった。
私が成長すれば、母も歳をとっていた。知らぬ間に母が60代になり、知らぬ間に時が過ぎたことを実感するのは苦しかった。私の人生はこれからのはずなのに、始まってすらいないような、すぐ終わりがあるような不安感が常に心に付き纏っていた。
母が帰ってきたと思ったら、今度は消えて無くなりそうな儚さを感じた。母のシワの増えた手をみると、私は悲しくなった。その経過をアハ体験でもできればよかったのに。「さみしい」の4文字が締め付ける心の苦しさを、母はきっと知らないのだと思った。母が玄関から去っていくたびに、私の心臓は細い糸できつくぎゅうっと締め付けられて、そこから上昇した感情がいつも涙となって昇華していた。
「私は、この家来年でていくけど、お兄ちゃんは家にいるしさ」
「うん」
「私は正月は帰るし」
「うん」
「お父さんも最近丸くなったしさ」
「うん」
「私が帰る時はさ、お母さんもおってよ家に」
「…うん」
母の罪悪感と、私の罪悪感。
どちらも、やるべきことをやっていない罪悪感。
母の業と娘の業。私たちは明らかに足りていない。
だから、私にとっての我儘は今の会話が限界だった。
オレンジ色のライトが私たちを包み込んでいる。
母がそこにいる事実だけが、私の心を溶かしていた。
2024.10.24 行かないで
どこまでも続く青い空
適応障害になったとき、終電までホームから電車に乗ることができなかった。仕事が定時で終わったときですら、ひとりホームに蹲りながら鉛のように重い足をなかなか動かせずに立っていた。帰宅ラッシュの時間には、そんな私は邪魔なもんだから、舌打ちするおじさんもいて実に申し訳なかった。なんとか電車乗れるのもおおよそ終電の時間あたりで、それまでは電車が行き来するのもひたすら見ていた。あの黄色い線の先に吸い込まれそうになる感覚は、物理的なものか果たして私のこころか。
私の職場は学生街の中にあった。コロナ前は早朝はゲロが散乱し、帰宅時間には酔った学生が駅前のロータリーで校歌を熱唱している。職場のお育ちのいい女の先輩が、「まったくバカでいやぁね」とランチどきによくその話題を出していた。そして、その次に医学部の弟の話をして貴重な1時間の休憩タイムは終わる。
酔ってゲロを吐く大学生よりも、スーツ着ながらどうでも良い話を真面目に聞いている私の方がよっぽど馬鹿馬鹿しかった。
普段は付き合い程度にしか吸わなかったタバコも、ストレスなのか、堅苦しい社会人に対する反発心かはわからないが頻度が格段に増えた。学生が集うロータリー内には喫煙所があり、仕事終わりにいつも吸っていた。身体に良いはずがないのに、深く吸うタバコの呼吸があまりにも心を落ち着かせた。コロナになって、ロータリーが閉鎖されるまでは、学生の声をbgmにタバコを吸いながら夕方の空を見上げていた。
諸々の事情を経て、仕事を辞めたのは8月だった。
退職した帰り道、猛暑により、目の前で歩いていたおじんさんが倒れ、救急車を呼んだ記憶がある。コロナも終盤に差し掛かっていたが、熱中症患者が増えたことで救急車が繋がらなかった。そこそこ小柄なおじさんだったので担ぎながらおじさんの家まで運んだ。近くのコンビニでポカリを何本か買ってとどけた。その後も救急車を呼ぶために電話をかけたが繋がらず、意識がもどったおじさんに帰れと怒鳴られて、逃げるようにその場をさった。
その日は、腹立つほど快晴だった。
仕事を辞めてからしばらく時間が過ぎた。働きたくても働けない状態で、傷病手当でなんとか凌いでいた。
私の一点の光は、恋人がいることだけだった。ああ、今この人がいなくなってしまったらワタシ終わる。何かが終わる。という、根拠もなく確信的な不安が私の余裕を無くしていた。地獄から一本の蜘蛛の糸にすがるカンダタも、これくらい余裕がなかったはずだ。
当時付き合っていた彼氏は優しい男だった。怒らず、穏やかで、のらりくらりと人生を生きていた。ストレスとは無縁なところが魅力的な男で、生きることに器用な印象を与えた。そして、その器用さが証明されたのは、浮気が分かった時だった。
浮気が発覚した時って、もっとこうドラマティックに心臓がバクバクすると思っていた。私の場合はというと、彼がシャワーを浴びている時にスマホの通知がなって、女からのやりとりが浮気そのものであったのである。
問い詰めるか、これからどうするか考えなくてはならないところで、私は家を飛び出した。感情は恐ろしいほど何もなかった。
その日も、青々と日照りの良い快晴であった。
職も男も失ったところで、私は途方にくれていた。
連絡先はすべて絶った。短期間で、あらゆるものを無くした。
いままでの関係性を全て壊すことが、今の私の心を救うためには必要だった。誰の何も聞くことができないと思っていた。1人になりたかった。
私は自分の家からひとしきり歩いて、
学生のころ住んでいた、中野に来ていた。
中野駅はいつでも賑わっている。
なんでかわからないけど私は中野が好きで、
ここにくるといつも落ち着く。
駅前の有名なお焼きを買って、改札前の丸いベンチに腰掛けた。ここは、おっさんの下世話な自慢話とマッチングアプリで待ち合わせた男女の挨拶がいつでも聞けた。
お焼きを食べながら、空を見た。いやというほど晴れていて心は曇天なのにその非対照さが嫌だなと思った。
いっそのこと、雷雨の中でびちゃびちゃになりながらお焼きを食べたい。
私は、大きなため息をついた。
「おねぇさん、なにしてんの」
不意に声をかけられて驚いた。左側をみると、そこには直毛の少し髪の長い青年がいた。ナンパか?と身構えたが、話し相手が欲しかったのでどうでも良いなと思った。
「いやぁ、なんもしてないよ」
「でかいため息ついてたよ。こんな晴天なのに、空見てため息つく人あんまいないね」
あはは、と適当に返したところでやっぱり知らん奴と会話するのはめんどくさいなと思った。適当にこのまんま帰ろうかなと思ったところで、男は会話を続けた。
「おれ、悩み聞いてあげようか。今暇だし」
「え?いやてか、あんたいま何してんの?新手の営業?勧誘?」
「おれは待ち合わせだよ。これから女の子来るんだけど、まだ時間あるから」
は?彼女持ちかよ!男ってのはよ!どいつもこいつも!
「あ、彼女いる男は興味ないわ」
「いや、違う違う、女の子はお客さん。お仕事だよこれから。俺仕事柄いろんな女の子見てるからさ、なんかなんとなーくお姉さん気になっちゃって」
あ、なんの下心もなくね!と付け加えられた。下心ないのか…と一瞬謎に落ち込んだところで、私の中のフェミニストが「じゃあお前なんぼのもんやねん!」と騒いだ。北国出身でありながら、心のフェミニストはいつも関西弁である。ここで重要なのは、下心が女を喜ばすわけではないけど、あらためて言われると謎に心外だと思うよねって話。
それもそれで、じゃあ尚更一体なんなんだよ。
というか、女の子とのお仕事ってそういうこと?
確かに妖艶な雰囲気あがある青年だった。
こんなお天道様がギラギラと張り巡らせている快晴の下でも、そのオーラは紫色だった。
▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎一旦トチュウ
中野であった青年に、
友愛と家族愛と性愛の話をされました。
かなり印象的な出来事で、その話を書きたい。
書きたいけど眠い!
眠い!最近最後まで書けてない!最後まで書ける人ってすごい!
衣替え (執筆途中)
衣替えをする季節になるといつも考えることがある。
四季についてである。
私はおおよそ4パターンに分けられた服どもを見ながら、四季と自身のこれまでを考えるのである。
私が生まれた土地は、日本ではあるが、はっきりいって四季はない。四季というよりぶっちゃけ二季である。夏と冬。どっちかといえば冬が長い。春と秋なんてものは、「あら?なんだかいつもと違う?」と感じ始めたときには既に猛暑と極寒が待っている。その高低差、60度ということで毎年テレビで駅前の温度計が報道されている。
大して気にも留めなかったこの「二季」は、上京したときに気にせざるおえなかった。本州とはこんなにも四季がはっきりしているのかと驚いたのである。こんな四季折々なら、故人も和歌なんて唄いたくもなっちゃうよね、と適当に納得したり、四季自体がなんてお洒落なんだろうとこれもまた心を刺激したりした。
上京したてのちんちくりん田舎ガールことわたしは、
服の選択に苦戦した。
そもそも、コーディネート自体難しいのに、4パターンも考えなきゃいけないだけで脳のリソースを占めた。
いままで、春や秋といったいわゆるグレーゾーン的な存在を考えなかった白黒人間の私は、
始まりはいつも
始まりはいつも、失ったものからできている。
手放したくなくて執着していたものや、
護られていて殻を破る勇気が持てなかったもの。
一度壊れて、
無くして、
諦めた時に、
初めて空いた容量の大きさに気付かされる。
始まりはいつも、手放したときから。
秋晴れ
秋が好きだった。
私が生まれたのも秋だし、
空気が澄んでいて、
空が高い。
深呼吸するとひんやりとした空気が肺いっぱいにひろがる。
雲ひとつない空も秋特有。
秋であるというだけで、
それに純粋に喜べたのは、
人生経験も乏しく、
狭い田舎で住んでいたからだろうか。
今艶やかな紅葉をみても、
昔ほど心動かされない。
喜びも快楽も昔よりも遥かに知っているのに、
あの頃の秋晴れに胸いっぱいだったこころより
満たされるものがみつからない。