時間さえあれば何でもできると思っていた。
けれど、最も大切なものは心のゆとりだった。
不安や焦りは心の障害。
だから今は、
机でほっと一息つくこの瞬間を大事に思っている。
純粋にやりたいことに向き合い、
ゆっくり着実に積み重ねること。
でももう私が報われることはないだろう。
それでも抗い続けたい。
諦めの悪さは直せない。
私の好きな私でいたいから。
~おうち時間でやりたいこと~
私には夢がなかった。
楽観からの落ち着き故か「大人っぽいね」とよく評され、
なんとなく生きていたが、社会人になって思い知った。
「大人」なんてものは「子供」の延長線だ。
成人しているだけの大人。
大人ぶっているだけの大人。
子供だと思われたくない大人。
所詮はエスカレーター式に自動的に得られる称号だ。
結局は私も、嫌々社会に迎合するだけの未熟者だった。
私の思う大人はもっと格好良かったはずだ。
上手くいけば誉めてくれ、
失敗すれば手本を示し、
道を外しかければ優しく叱ってくれる。
そんな道標のような人間だ。
もっと早く気が付けばよかった。
私の夢は「大人になること」だったんだ。
~子供のままで~
愛があれば通じ合えるとか。
愛があれば他に何もいらないとか。
愛があれば奇跡を起こせるとか。
誰がこんな魔法みたいな言葉にしてしまったのか。
愛なんて叫んだところで意思表示にしかならない。
愛は魔法ではない。
だから通じ合おうとするだけでいい。
もっと欲しがってもいい。
奇跡に頼る必要なんてない。
叫びたいと思えることが愛なんだ。
~愛を叫ぶ。~
モンシロチョウで思い出した。
私がまだ義務教育を受けていた頃、
実家が引っ越す前の家のこと。
毎年夏が近づくと、
庭先の植物にチョウチョの幼虫が現れる。
いつの間にか5、6匹いて、
葉っぱをムシャムシャと我がもの顔で食べている。
その様子を見たり、音を聞くのが好きだった。
サナギになると動かないので見る回数は減り、
気がつくとカラッポになっている。
結局、チョウチョの姿を見ることは殆どなかった。
夏の一時、今でも鮮明に覚えている。
トゲが生えた枝。
鳥のフンのような姿。
大きな目のような模様。
突っつくと飛び出す臭いツノ。
あ、
それアゲハチョウだ。
~モンシロチョウ~
正しい選択をした
当時を思うなら
選択肢なんてない程に追い込まれていた
もしも拒んでいたら
今の私はなかっただろう
同じ状況なら誰でもそうしたと思う
でも
どんなに望みが薄くても
どんなに堅実な判断でも
自分を信じてあげられなかったことに
涙を抑えきれなかった
~忘れられない、いつまでも。~