『どうか元気で、幸せに』
私が望んだのはそれだけだった。
なのにあの子は、ネオンがギラギラ光る夜の街に溶けていって、そのまま帰ってこれなくなった。
届かぬ想い。
届くわけがない。
伝えなかったから。
『どうか元気で、幸せに』
私が望んだのはそれだけだった?
厚かましくも、想いを受け取って欲しかった。
「私はあなたを心配しているのだ」
という一方的な想いを。
あの子の昔のすっぴんの顔しか知らない程度の、この私が。
『届かぬ想い』
『神様へ』
ありがとうございます。
あなたを信じさせてくれて。
永い永い時間、桜の樹の上からこの土地を見守ってきた。
人間は、桜を見ては『儚い』などと嘆く。けれども私からしてみれば、毎年花を咲かせる桜と比べて、100年ぽっちも生きることができない人間の方が余程儚い存在だと思うのだ。
そんなものになど関わるつもりは無い。
そう思っていた。
「そこでなにしてるの?」
樹の上の私に気がついたのは、幼い少女だった。
「おまえたちのことを見守ってるのさ」
私が見えるなんて珍しくて、うっかり返事をしてしまった。
少女は何故だか私を気に入ったらしく、毎日のようにここを訪れた。
話すのは、『今日は何をした』なんてくだらないことばかり。
「これからも、ずっと。わたしたち友達よ」
桜が散って、夏になり秋になり冬になった。翌年も桜が咲いて、何度も四季が過ぎた。
少女が成長するにつれて訪れる頻度こそ減ったものの、人生の節目節目には欠かさず私に会いに来た。
「大学に受かったよ!」
「春から社会人なの。スーツ似合ってる?」
「この人と、結婚しようと思うの」
「私の子ども。そっくりでしょ?」
「子どもたちも巣立ったし、またここにたくさん来れるわ」
「……実はね、病気が見つかっちゃって」
「ここに来れるのも今日で最後だと思うの。今まで、本当にありがとう」
そしてその言葉通り、あの子はそれきり二度とここに来なくなった。
これからも、ずっと。
なんとひどい嘘だろう。
やっぱり、人間なんかと関わったのが間違いだった。
けれども不思議なことに、何年経っても、何十年経っても、私の記憶にはあの子の姿が残り続けている。
また桜の花が咲く季節が来た。
今年も、あの子の孫だかひ孫だかわからない人間たちが花見にやってきて賑やかになるだろう。
『これからも、ずっと』
「あーあ。わたし、心配だなぁ」
私の幼馴染が、いたずらっぽい声色で言った。
自転車を押しながら歩く彼女の大人びた横顔が、沈む夕日に照らされて、燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
「わたしがいなくなっても、ちゃんとひとりでおうちに帰れる?」
「なっ?! あ、当たり前でしょ! もう中学二年生だよ? 小学生の時とは違うんだから」
彼女は、私の憧れだ。
同い年なのに私なんかよりずっとずっと大人っぽくて、面倒見の良さから慕われているみんなのお姉さん。
身長だってすらりと高くて、私と同じセーラー服を着ていても全然印象が違って見える。
私の反論を聞いた幼馴染は、ほっとしたようにくすくす笑った。
「……そうだよね。よかった」
彼女はまもなくこの町を出ていく。
よくある『家庭の事情』のせいだ。
『あの子なら、どこでもやっていけるよ』
信頼から、みんな口々にそう言った。
「……会いに行くよ」
ずっと前を向いていた彼女が、こちらを向いた。
「ひとりで帰れるけど、あなたがいないと、私がさみしい」
「……うん」
幼馴染の笑顔が、沈む夕日に照らされて綺麗だった。
『沈む夕日』
今夜、空には数多の星がきらきらと瞬いて、眩しかった。
そんな星空の真下に、海が広がっていた。吸い込まれそうなくらい、昏い昏い海。
輝くもののそばで、深淵がぽっかり口を開けて待っている。