草を刈ったあとの青臭いにおいを嗅ぐと、大量虐殺の爪痕だと感じる。刈られた対象がたまたま人間じゃなかっただけで、なんらかの命が失われた痕跡だ、と思う。
花束をひとにあげるというのは、植物への大量虐殺を、人生におけるフレーバー程度にしか思っていないということだ。つまり、それだけヒトを愛しているということ。
すべての命は等しく尊いものなんてうそぶきながら、ヒトだけを愛すること、それが人間ってやつで、現世の人間はすべてヒトを愛したヒトとその子孫しかいなということを思うと、うんざりする。まあ植物に肩入れしたところで何の益もないからね。ヒトを愛する人間になる方が便利なんだろうさ。
そう思いながら、花屋に並んだ植物の惨殺体たちに、密かに小さく手を降った。
勿忘草の英訳って「Forget-me-not」らしい。直球すぎる。なんか昔の人間が勝手に溺れ死んだときに恋人にあげようとした花が勿忘草だったからって、ネーミング安直すぎるやろ。
まあコンビニの常連客を「コーヒー牛乳さん」と名付けるようなもんか。
一人でいるのが好きだった。
一人で出かけて、一人で食べて、一人で好きな景色を見て、素敵だったことを、誰にも話さずに帰る。
語るとしたら素敵だったものへの宣伝のためだ。自分を知ってもらうためではない。
複数人で出かけるのも好きだったけど、単に何かを見る目と頭が複数になったのがうれしい、という気持ちだった。違う身体が見た、よくわからないものたちを見るのが好きだった。
30を超えた大人になって、初めて人へ恋をした。自分があの人を好きな気持ちを、相手も感じていてほしいという強烈な衝動。世の中の恋愛表現って、誇張表現じゃないんだ、と初めて気がついた。
共感されることの欲求は領土欲の言い換えであるように見えて、今の自分には怖いものに見える。しかし、そんな恐ろしいことを普通の人は毎日やっていて、「愛されるって嬉しい」「同じ気持ちでいると嬉しい」って言うのだろう。
普通の人になりたかったから、普通の人のように恋ができて嬉しい。でも「あなたもやっぱり本当は一人がさみしかったんでしょう」と言われると、共感されなかった思いはなかったことにされるのだな、と思ってかなしい。一人が好きだったかつての自分の気持ちを知るものは自分一人しかいない、そのように振る舞っていたから当然だけど、この人生の旅の終わりまで、せめて自分だけは、一人ぼっちの楽しさも忘れないでいたい。
優しさ、差し障りのないこと、地面が今日も割れていないこと、誰にもなぐられないこと、今日もめしがうまいこと、生きるのがたやすいこと、本が読めること。
それは、本当に?