それぞれの定義/お題「愛があれば何でもできる?」
「愛があれば何でもできると思いますか?」
馬鹿げた問いだった。発したのが彼女でなかったら、適当に流した上でこれからの付き合いを考え直すところだ。
でも相手が彼女だったので、一応正直に答える。
「何でも、というのが文字通り本当に何でもなら、無理だろうね。神になると言うようなものだよ」
「なるほど」
彼女は真面目に小さく頷き、続ける。
「でも、この手の言説はよく見る気がします。普遍的な命題なのですか?」
「まぁ、人間は愛が好きだね。愛も神も、とても便利な概念だから」
少し投げやりな言い方になってしまうのは勘弁して欲しい。便利な概念ではあるが、人によって定義が違ったりもするし、そのことで衝突が起きたりもする。そういう概念なのだ。そしてそういう闘争からは、できれば距離を置いておきたい。
「では概念の定義として、それがあれば何でもできるようになる、そういうものが愛なのだとしたらどうなりますか?」
(どう、と言われても)
彼女なりの思考実験なのはわかるが、どんな答えを期待されているのかがわからない。
「その定義では実在するとは思えないから……理想的な概念、ということになるだろうね。世の恋人たちが気軽に愛しているとは言えなくなるんじゃないか? 神みたいに」
「そうでしょうか。結構気軽に皆さん、神って言いますよね。褒め言葉で」
「俗語では言うね」
言葉はすぐに古びて色褪せるから、人間は強烈な言葉を探して遠い概念すらも卑近に貶める。
「定義を重くしても気軽に言う人は言うのであれば、現象としては変わらないのでは」
「というより、定義から始めようとするのが現実に即していないんじゃないかな。言葉は現象がまずあって、定義は実例から探られているものだ」
つまり、と思考のままに続ける。
「定義からいろいろな実例が発生しているわけではなく、それぞれが定義を持っていて、それに沿って発言しているだけだ」
軽く発言する者は、軽い定義を持っているだけ。
「普遍的な概念ほど、多くの人が言及し、定義も広く分散するというわけですか」
「あぁ」
「では、あなたの愛の定義はどんなものですか?」
やはりこんな会話に付き合うべきではなかった。こんなこと、真正面から尋ねられても困る。非常に困る。
「君はどうなんだ? いま愛について思考実験してみて何か得られた?」
ひとまず問い返して矛先を逸らす。彼女は真面目なので少し思案した。そうですね。
「理想の先に定義したときに、神より愛の方が能動的なのが興味深いと思いました」
「能動的?」
「神が願いを叶えてくれるという表現はよくありますが、何でもできるということは、愛があっても叶えるのは自分になります」
「それは、面白い見方だね」
お世辞ではなく言う。
「ありがとうございます」
彼女は私の評価にお礼を言った後、じっとこちらを見つめた。こちらの言葉を待っている。
わかっている。彼女は、少し逸らした程度で疑問を忘れてくれるような愚者ではない。気遣いは知っているから、答えたくないと言えば引いてはくれるだろうが。
諦めて、軽く答える。
「私にとっては、推力のようなものかな。何でもできるとまでは言わないが、やりたくないことや普段やらないことを、出来るようになったらやるようになったりすることになる。その程度のものだ」
たとえば、普段付き合わない会話に付き合ってしまうとか。
具体例までは、もちろん言わなかった。
ただの忠告/お題「一年後」
「一年後の私がどうなってるのか教えてくれ! いや、教えてください!」
爺さんくらいの年齢の男が、おふくろに頭を下げてるのを見たことがある。
まぁアレだ、例の与太話。おふくろが未来予知ができるとか、子供(オレだ)を産んでできなくなったとか、それは嘘でまだできるとか、それ系のやつ。
令和の時代に何言ってんだと呆れるが、溺れる者は藁にも縋るって言うし、どんな藁でも弱ってる奴は縋りたくなるんだろう。感心するのは、そもそも一部でしか知られてない、しかも一番流行ったのが十年以上前(オレが生まれた頃くらい?)の、古びた噂話なんて拾ってきたことだ。
感心してたのはオレだけで、おふくろはと言えばそんなんじゃ詐欺に遭うと説教し、誰から噂を聞いたのか聞き出し、ついでに弱ってるなら病院に行けとしめくくって追い出した。
「ごはんだよ」
と、何事もなかったかのように言うから、一応訊いてみた。
「あの爺さん、あれでいいの?」
「知り合いの親戚だからって、あれ以上面倒見てられないね」
それはそうもしれないが。
「あの爺さん、一年後には」
死んでそう、とオレが言う前におふくろが言った。
「だから病院に行けって言ったんだよ」
「あー……」
なるほど。知り合いの親戚くらいなら、そのくらいの忠告がギリギリだ。
ごはんだよ、とおふくろがもう一度言って、その話題はそれきりになった。
面倒なのであんまり人には言わないが、オレの爺さんは政治家だ。
「生きる意味について考えたことがあるか?」
初めて会ったとき、そんなことを言った。さすが政治家、校長先生が朝礼で言うようなことをグレードアップして言うものだ、などと思った覚えがある。
自分の返答はと言えば、よく覚えていない。単純に「ないよ」、返して「爺さんにはあるの?」、ちょっとひねくれて「そんなこと考えてどうするんだ?」辺りが有力候補か。
とにかくこちらが否定的であることは伝わったのだろう、続く言葉も覚えている。
「それは道が決まっているときには重いものだが、道を決めるときには役に立つものだ。折に触れて考えておけ」
こちらが返事をする前に、爺さんは付け加えた。機会を見つけて、という意味だ。『折に触れて』が小学生には難しいと思ったのかもしれない。いや難しいのはそこじゃないだろ、と小学生のオレはツッコミを入れた。そのツッコミが脳内だったか口に出したかは、やっぱり覚えていないわけだが。
高校で進路調査票を配られて、そんなことを思い出す。年月が経って、爺さんの言うことが少しだけわかるようになった。
初対面の小学生に対してあんな堅苦しい命題を言い出した爺さんは、あれはあれで緊張していたのかもしれない。そういうことが顔や態度に出ないんだよな、あの爺さん。