073【やわらかな光】2022.10.16
君からそっと手わたされた料紙には流れるような筆致でなにかがかきつけられていた。うたの道のたしなみに欠ける我が身にはなんのことだか皆目意味がはかりかねたが、それらがまるでやわらかな光をはなっているかのようにみえたのはたしかだった。
君はこれをうつむきかげんで真摯な眼差しをしながら運筆したのか、それとも、すっと背すじをのばしてすずしげな面持ちでいともたやすいとでもいうように綴ったのか、どちらも君らしくおもわれたものの、君のそばをしばしはなれて野に山に馬を馳せ朝な夕なに弓の練磨にはげむうちにかくもくらす世界に懸隔が生ずることになっていたとは。
幾つものなにかが懐中をよぎりさっていったがそれを言の葉にうつす巧みを知らぬ我が身であれば、硯をひきよせ墨をすることもかなわずたださずかりしものをじっと見つめるよりなすすべもなく、纏綿と綴られた文字のつらなりのつたえるなにかを載せた儚げな暈しのはいった料紙のはなつやわらかな光にただただおもてを照らされているほかはなかった。
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今宵の「鎌倉殿」の実朝は仰天の設定でしたね(@_@;)
実朝からの和歌が仰天の内容であることを察することもできずに返歌に悩みひたすら真摯にむきあっている泰時の図、ということでお楽しみくださいませm(_ _)m
072【鋭い眼差し】2022.10.16
客席に向かって拍手をうけとめていたマエストロが、おもむろにきびすを返し、僕等の方に向き直る。白髪、しわの深い額、眼鏡の奥の糸のように細い目、柔和な笑みをたたえた口元。僕等のオーケストラとこのドイツ系指揮者との付き合いは長く、もう20年ほどになる。お互いに年をとったし、それにつれてまるくもなってきたな、と感慨も深い。マエストロはひとしきり無言の笑顔で僕等とコミュニケーションをとると、最後に、頼んだぞ、とでもいうように僕にアイコンタクトを送った。と、指揮棒を構える。まるで面を取り替えたかのように、マエストロの表情が厳しく一変する。鋭い眼差しからはなにか特別なビームのようなものが出ているに違いない、とこの指揮者の来日公演のたびに僕は感じる。
指揮棒の見えるか見えないかの微かな動きで、弦が静謐なトレモロを奏で始めた。今日の演目はブルックナーの四番。この指揮者の十八番でもある。間もなく鳴らし始める僕のホルンにはこのコンサートの成否のすべてがかかっている。僕はマエストロの送る合図に導かれるように最初の音を鳴らした。まるで魔術のようだった。この瞬間から僕は僕でなくなる。マエストロの指揮棒に操られる、いわば、オーケストラという名のピアノの鍵盤のひとつになるのだ。
071【高く高く】2022.10.15
いまでも運動会の競技としてあるのかな?、マスト登り。私は運動神経ゼロなので、全然登れなくて、おかあちゃんに「私は子どものころこんなのふつうに登れたし」と、下校時刻後の運動場でバリくそ特訓された。
そもそも高いところだって苦手だっつーのに絶対ムリじゃんよー、と半泣きで特訓されてたけど、やればできるもんで、最終的にはサル並みに登れるようになっていた。
本番? 当然、よゆーのよっちゃんよ!
あの天までとどくかという孟宗竹を高く高く登って、誰より早く滑り降りて(自分ではそのつもり)、猛ダッシュで駆け帰って(いうまでもなく足も遅い)、次の人にタッチする。勝負の決め所が足の速さだけではない、ってところが、鈍足の私にとってはサイッコーに爽快な瞬間だった。
いや、ところでさ。運動会の時期になると、全小学校の運動場にマスト登り用の孟宗竹が4本くらい、バンバンバンバンとおっ立つのって、もしかして、うちの県だけの風物詩なんですかね???
070【子供のように】2022.10.14
畑の一角に落ち葉をかき集めて山盛りにし、そのなかに掘りたてのサツマイモを埋める。イモはあらかじめ濡れ新聞と銀紙でくるんである。火をつけたら、火事に用心しつつ、あとは固唾を飲みつつ見守る。
しばし後にイモを掻き出し、アツアツを軍手で握って、銀紙と新聞紙を剥いで、かぶりつく。子どものように夢中になって平らげたあとで、お互いの鼻や頬がすすで黒くなっているのにやっと気がつく。もはや笑い転げるしかない。
息が切れたあとで、水筒から熱いお茶を注いだら、ほっと一服。
なーんてねっ。
これが、理想の老後かな。
069【放課後】2022.10.13
今日のトークテーマは、放課後、ですかのう……どれどれ。え、なに、わしがだれかって? わしは電柱じゃ。「おまえはずっと通学路に立ってるから適任じゃろ」ちうことで、みなから推薦されましてのう。ほっほっほ。
さてさて。
朝の通学路もにぎやかじゃが、放課後の通学路のにぎやかさは、ひとしおでしてな。朝とちがって急ぐ必要がないものじゃから、子どもらは思い思いのペースでおしゃべりしたりふざけあったりして帰っておりますのじゃ。わしゃ、毎日それを楽しみに待っております。やはり、子どもというものは、じつに可愛らしいものですありますからな。
それでもって、どういうわけか、わしの根本は伝統的にランドセル置き場にされてましてなぁ、子どもらはぽんぽんぽんとランドセルをほおって、だるまさんが転んだやたか鬼や影ふみに興じますのじゃ。
いちどだけ、「ランドセルがゴミのようだ」とふざけてみたら、根本をごみ集積場にされておる仲間にこっぴどくおこられまして……いやたしかに、毎週2度ずつためられるごみ袋とくらべたら、ランドセルが山積みにされるなんて、幸せそのものでありますからなあ。なになに、電柱はどうやって会話するのかって? そりゃあ、あなた、電線を通じてテレパシーのようなものが伝わってくるのですよ。
それはさておいて。
こんなふうな子どもらのさわぎを、最近はやかましいだのうるさいだの文句をいう御仁も増えておるそうじゃと聞きますが。うーん、しかしですな。子どもらの声の絶えた地域社会というものを想像してみなされ。おおよそ未来が感じられませぬよ。たまーに、とんと山奥の電柱から、にぎやかでうらやましい、とそれはそれはさびしげなつぶやきが届くこともありましてねぇ……ことに古い電柱になると、むらに子どもがあふれておって、よじ登られたり、セミ取りをされたり、街灯に寄ってくるカブトムシを徹夜で待っておる子どもらを見守ったり、などということをおぼえておるものですから、さびしが倍増するらしいのですよ。
わしもねぇ、コロナ禍の感染防止のための休校のときに、地域そのものが急に、しーん、と静かになりましてな。はぁなるほど、このさしびしさはたまらんわい、つくづく骨身に堪えるものじゃ、と彼らにいたく同情したものですじゃ。
なに、もう時間? ですと?
ファミコン全盛期には、放課後になると一気に電気が吸い取られていた話とか、まだまだ話題を用意しておったのじゃが、残念な。うんうん、またゲストによんでくだされ。そのときはまた、存分にお話しさせていただきますからな。