009【心の健康】2022.08.13
もしも、心にも形があって。
心臓みたいにからだのなかから取り出すことができるのなら、傷ついたところに絆創膏をはったり、手術をほどこしたりして治療してあげられるのに。
あるいは、模型をゆびさしながら、「ここにあるナントカがカントカなっちゃったせいで、元気が充分には出なくなっちゃってるんッスよ」なんて説明も、しごく簡単にできちゃうんだろうけど。
形が無いせいで、うまく機能してないことが理解してもらえない。
理解してもらえないことがしんどさを倍増させてることも、気づいてもらえない。
心専用の造影剤、誰か発明しておくれ。
レントゲンで内臓を撮影するように、見えない心の写真が撮れるように。
008【君の奏でる音楽】2002.08.12
君の奏でる音楽。
それは、
バッハの数式にもとづく
モーツァルトの天衣無縫
野に響くひばりのさえずり
母なる言語の快活なおしゃべり
生きる希望
まさに、心臓のうたう不滅の歌
人はみな生きているだけでオルゴールのように音楽を奏でているのだけど、
君は絵を描くように、この世界をつらぬく普遍性を採譜する。
※この詩を、私がもっとも敬愛する作曲家 C.N に捧げます
007【麦わら帽子】2022.08.11
真っ先におもいうかんだのは、海賊王をめざしているあのキャラクター。でも、私のなかでの麦わら帽子のヒーローは、やっぱり、釣りキチ三平くん。
麦わら帽子を被るだけで。三平くんのように、ありとあらゆる魚を釣り上げられる魔法が手に入るような気がしてた。三平くんのように、自然のなかに飛び込んで、工夫につぐ工夫でどんな困難も乗り越えられるような気持ちになってた。
だから子どもの頃は、麦わら帽子にたいしては強烈に愛着があった。もしかしたら、麦わら以外は帽子とみとめられないくらいだったかもしれない。
それと、お父さんはいつも麦わら帽子だったなぁ。探せばホームセンターのどこかに陳列されていると思うけど、男性用の大振りで、ぺったりとした黒いリボンが巻いてあるやつ。あまりにもぶかぶかで、早く大人になってこれが被れるようになりたかった。でも、そもそも男性用だからね。
いまでも、私の頭にはぶかぶかのはず。
006【終点】2022.08.10
学校の写生会のとき、路面電車に乗って終点まで行くの、好きだった。終点まで行くと、なぜか電車に「おつかれさん」っていってあげたくなるんだよね。
普段は、下車するときは、必ず運転手さんに「ありがとう」っていう。でも、当たり前だけど、車両にはなんの感慨ももたない。そのまま下りて、普通に見送る。なのに終点までいくと、急に車体が生々しい存在として意識されだすみたい。レースを終えた競走馬のように、よく頑張ってくれました、と労ってあげたくなっちゃうんだなぁ。
うふふ。へんだね。
このお題に出会うまで、自分が無意識のうちにそんなこと感じてただなんて、知らなかった。
それとね。路面電車の終点って、ある意味始発と兼用じゃん。
さっき終点に着いて仕事を終えた電車が、クルクルクルと行先表示を替えて始発になる。それに一番に乗り込むときの、ガラーンとした車内の感じ。間もなく出発を控えた、栄えある一番乗りなのに、そこはかとなくただよう寂寥。この世界に、運転手さんと私とたった二人だけ。へたしたら、動かない電車の中で、一人きりで、運転手さんが一服から戻ってくるのを待ってたりする。
警笛一声、やっと走り出した瞬間って、これで全てが平常運転に戻るんだ、ってほっとしない?
私は、あの世からこの世に戻って行く感じがする。自分も電車も、終点兼始発から遠ざかるにつれ、生色を取り戻していくような。
私にとっての路面電車の終点のイメージって、この世の果てのちいさな死、もしくは、かりそめの終焉、なのかもしれないね。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴
追伸。
昨日のお題、皆さんの文章にはげまされました。
感謝です(人´∀`)アリガトウ
005【上手くいかなくたっていい】2022.08.09
子どものときから失敗に対して、すごく恐怖感というか、忌避感というか、あった。一回でも失敗したら全部終わり、みたいな。その恐怖感は、いまでもめっちゃある。だから、新しい所や人間関係に足を踏み出すのは苦手、どころではない。できたら一切やりたくないくらい。
こんなふうに育っちゃったのも、子どもの頃はそーゆー教育が標準だった時代だったからやむを得ないし、まぁ、絶対に失敗させないようにレールを引くタイプの親だったし。
なんかねぇ、どうせやっても上手くいくわけないし、最初から手を出さない方がマシだよ、みたいな諦念ばかりが、パン種を発酵させるみたいに膨らんで、今に至ってる。
でも、冷静に考えたら、「一発で上手くいく」こと自体が不自然なんだよ。親も先生もそれを望むから、そーゆーもんなんだな、と思い込まされてしまってたけど。
どんな物事も、【仮説→実践→失敗→検証→新しい仮説の立直し→実践→失敗→……】のサイクルを何度も回して、やっと、成功するわけだ。ひょっとしたら、ちゃんと成功に向かっているかもわからぬままに、とにかく実践し続けるしかないときもあるわけで。
「上手くいかなくたっていい」っていうのは、あいかわらず「上手くいくのが標準で、上手くいかないのは例外」みたいな含みが感じられて、ちょっとしっくりこない。
実際のところは、むしろ、実践が成功することのほうが例外なんちゃうんかな。ほら、歪なのも整ったのも、ありとあらゆる四角形の中で、例外中の例外が正方形であるような。実践の成功も、正方形も、踏まえるべき条件をもらさず踏まえてないと成立しない、ってとこがお互い相似形だよね。
ていうことはさ、成功ってそもそも例外だから。
だからこそ、成功率、つまり、例外である成功を確実に成立させる確率だよね、を高めるために、失敗を繰り返しながら努力するのとちゃうんかな。失敗を通して成功のための条件を洗い出し、きっちり身につけるためにさ。
そう考えると、成功率100%で工芸品を生み出す伝統工芸の職人さんって、まじリスペクトだよね。あの人たちは、一挙手一投足が正方形になるまで、実践と失敗を何度も繰り返したわけなんだから。
【おばさんになったいまでも失敗が恐い私にしっくりくる表現は、新しいことに挑戦する勇気を鼓舞してくれる表現は、どんなんだろう?】
今回のお題は、そんな新しい謎が残った。
あ、でも。考えるネタが新しく増えたのは、それはそれで、めっちゃわくわくしてる!