【落ちていく】
(最悪だ…。)
今日はすこぶる調子が悪い。1限目を終えた今もなお、
頭痛と寒気が止まらない。熱がないからと登校したことを
後悔し始めていた。
(…ダメだ。保健室で休ませてもらおう…。)
席を立つと、軽い目眩に見舞われる。
同級生たちの楽しげな話し声が頭に響く。
「どうした?ふらついているぞ。」
階段に差し掛かったところで、後方から声をかけられた。
振り返ると、他クラスでの授業を終えたところであろう
現代文担当の先生がいた。
『っ、すみません…。体調、悪くて…保健室に…。』
いやに息苦しい。声を出すことさえも辛い。
「そうか。保健係はどうした?1人で行けるのか?」
先生の問いかけに、ゆっくりと頷いて答える。
話をしていると、丁度2限目の数学担当教師が階段を登って来た。
『せんせ…すみませ…。…たいちょ…わるくて、…。』
まともに話すことすらも出来なくなってきた。
何でよりによって数学の担当がこの教師なんだ。
「あぁ?なに?」
…やっぱり、こいつ、きらい。
「この子、体調がすぐれないようなので、
これから保健室に連れて行きます。」
「それくらい自分で言えないのか。
先生も、生徒を甘やかさないでください。」
私のせいで、先生も怒られている。
私が弱いせいで…。
「甘やかすことと助けることは違うと考えています。
そして私は、生徒を甘やかしているつもりはありません。」
弱い私が悪いのに、先生は庇ってくれている。
その言葉に、目頭が熱くなる。
胸が、呼吸が苦しくなる。
視界が、揺れる。
「!…急ぎますので、そろそろ失礼します。」
息苦しさに耐えかねて、前のめりになったその時、
バランスを崩して階段から落ちそうになった。
痛いのは嫌だなんて考えていたけど、
身体を打ちつけるような痛みを感じることはなかった。
先生が、咄嗟に支えてくれていたのだ。
文系科目の担当とは思えないほど、先生の腕は安定していた。
2限目の授業はないからと、先生は保健室まで付き添ってくれた。
保健室に着く頃には、迷惑をかけてしまった罪悪感や情けなさ、
庇ってくれた嬉しさや安心感で、涙腺が緩みきっていた。
『グスッ…すみません…。』
「なぜ謝る?お前が気に病むことは何もない。」
『…ゥッ、ごめ、なさ…。』
「大丈夫だ。何も悪いことはしていないのだから。」
先生の声を聴いていると、何だか安心する。
低くて柔らかく、それでいて芯がある響き。
必要以上に張り上げられることのない、優しい声。
「深呼吸できるか?…そう。もう1度。」
穏やかな声を聴いているうちに、瞼が重くなってきた。
「落ち着いてきたな?…よし。
さあ、横になって。ゆっくり休みなさい。」
微睡んでいても、先生の声が、言葉が優しく響いてくる。
私はそのまま身を任せるように、眠りの世界へと落ちていった。
【夫婦】
『あぁ、"良い夫婦の日"か。』
「ん?…あぁ、そうだな。どうした、急に。」
『ラインきてた。』
「…アイツか?」
『多分当たり。』
「ったく、余計なお世話だっつの。」
『…。はい、送った!』
「ん?何をだ?」
『今の。』
「はぁ?」
『"余計なお世話だ"って言ってたよって。』
「バカタレ!余計なことをするんじゃねぇ!」
『はははっ。』
「笑うな!」
『まあまあ、そう怒んなって。』
「お前なぁ…。」
『私の方にラインしてきたのってさ、
こういう展開が起こるのを望んでたんだろうね。』
「だろうな。良いように遊ばれやがって。」
『それはお互い様でしょ。』
【どうすればいいの?】
私が担当するパートは最初から決まっている。
他にやる人がいないし、1人で足りるから。
なのに、なんで。
自分が担当しない楽器のパート割りを
なんで私が考えなきゃいけないのだろう。
私の担当楽器は、配置も大体決まっている。
なのに、触りもしない楽器のセッティングを
なんで、ここまで必死になって考えなきゃいけないのだろう。
同じ打楽器パートなのだから、責任があるのはわかっている。
わかってはいるけど、なんで
何から何まで、私が考えなきゃいけないの?
移動や持ち替えにおいて
演奏に支障がないかの確認をする必要があるから、
ホール練習までに楽器の配置を考えなきゃいけない。
別に、考えるのが嫌いな訳ではない。
むしろ好きだ。
だけど、1人で責任を負わざるを得ない
この状況には不満がある。
パートリーダーでもないのに。
なんで私に報告を求めるの?
なんで勝手に配置を変えるの?
本番まで時間が限られているのに。
外部から助っ人に来てもらう以上、
譜割りは迅速にしなきゃいけないのに。
私は、譜割りがどうなろうと影響しないのに。
関係あるのは、あなたの方なのに。
なんで、話を脱線させるの。
なんで、ヘラヘラしていられるの。
なんで、そんなに無責任でいられるの。
なんて言えば、脱線せずに譜割りを終わらせてくれるの?
どうしたら、他パートも考慮した配置を考えてくれるの?
私は、どうすればいいの?
―――
『…まあ、色んな手間がかかるのも含めて
好きだから良いんだけどさ。』
「お前が良いなら良いんだが…。
あまり、気負うなよ。俺も協力するから。」
『うん。十分手伝って貰ってるから大丈夫。ありがと。』
「…。」
―大丈夫な奴がそんな顔するかよ。
「本当にお前は…そういうとこだぞ。」
『なにが?』
「今はもう1人じゃないんだ。
だから…
もっと、俺を頼れ。」
【宝物】
私には、たくさんの宝物がある。
中学校でできた宝物。
修学旅行中、色違いで買った花のストラップ。
県大会出場を意気込んで送り合ったメッセージ。
高校でできた宝物。
他所では出来ないような、貴重な経験の数々。
後輩から貰った、全国出場を祈願した、お手製のお守り。
先輩から貰った、頼もしくて優しい、温かい言葉。
同じ学年、同じ部活、同じパートになった
アイツとの思い出。
大学でできた宝物。
専門性の高い大学だから得られた知識。
同学科の皆んなとの、イベント運営の成功体験。
仲間と目論んだ、文化祭での演奏の練習。
…台風直撃で文化祭が中止になったけど、
皆んなで集まって練習できたのは、良い思い出だ。
社会人になってからできた、宝物。
数年ぶりに偶然再会した、
同じ学年で、同じ部活で、同じパートだった
アイツとの約束。
――じゃ、明後日の合同練習で。またな。
【キャンドル】
――♪ドレミファソ ファレ ファミ
――♪ドレミファソ ファレ ミド
―――♪――♪――♪―――
『…ふぅ。』
「お疲れ様。相変わらず上手いね。」
『へへ、ありがと。』
薄暗い防音室。
室内を照らすのは、数本のキャンドル。
『やっぱり、ロウソクがあると雰囲気出て良いね。』
「うん、燭台とか色々持ち寄った甲斐があったよ。」
『今日はありがとう、付き合ってくれて。』
「こちらこそ。いい経験ができたし、楽しかったよ。」
『そう言って貰えると嬉しいよ。』
「でも、僕で良かったのk『良かった!他に適役はいない!』
…あはは、そっか。」
『ねぇ、また誘ってもいい?』
「もちろん!君からのお誘いなら大歓迎だよ。」
『やったー!』
「ロウソクもまだ残っているしね。
また、先輩に部屋を貸してもらおう!」
『うん!』
――燭台、カッコいいの探してみようかな…。
――えぇ〜?演奏会でやるわけじゃないんだろう?
どこに置いとく気だい?
――それが問題なんだよね〜。奴に預かってもらおうかな…。
――止めはしないけど、程々にしときなよ…?