『初めて』
君と初めて会ったのは、初夏だった。小さくてか細い鳴き声で、膝の上で震える君に触れるのさえ怖かった。
広い檻の中ではさらに小さく見えて、それでも懸命にここから出してと訴えていたね。
「みぁーっ、みぁーっ!」
檻の隙間から手を伸ばし、恐々触れた。暖かくてふわふわした手のひら。ときどき皮膚に穴をあけてしまいそうな鋭い爪が掠った。
「お外に出たいの?」
あまりに必死だったから、少しだけ・・・・・・と、檻の扉を開けた。まるで怖がる様子もなく檻から飛び出したのに、腰が引けたような歩き方で部屋の中を進んでいく。
それがおかしくて声を上げて笑った。
「ぬんきち」
名前を呼んでもまだ反応はない。どれだけ時間があれば振り向いてくれるかな?
ぬんきちとの時間は今始まったばかり、10年か20年か。この先長い時間をぬんきちと共有する。いろいろなことがあると思うけれど、この瞬間は絶対に忘れないだろう。
「うちに来てくれてありがと」
「にやぁー!」
君との出会いはきっと運命だった。出会わせてくれた神様には、感謝しかないと思う。
君と出会ってから、私の心はいつも穏やかになったよ。
おわり
『夢の行き先』
ぼんやりと雲を眺めていた。世の中は平等に時間が流れているのだろうかと疑問が湧く。
「もう、やめよっかなぁ」
高校のときから小説を書いて、高校生になって小説家という夢が定まった。だが今年で28歳になる。会社員になってどのくらい経つのか。高校生の頃にあった熱量が今はもうなかった。
大きな雲が青い空のキャンバスの上を流れていく。ついさっき、この場所でサイトを開いて落選を知った。やりきれない気持ちになっていたが、風は気持ちがいいし天気はいいし、寝転がったら最高だった。
落ち込んでいた気持ちが全てどうでもよくなる。もういいじゃないかと、そんな気持ちにもなった。
「でも、目指したいんだよな」
つぶやいてから目を閉じた。光が瞼を透かし、目の前がやんわりと薄桃に染まる。はぁ、と大きくため息をついて起き上がった。
「もう少し、足掻いてみようか」
この天気がそんな気持ちにさせてくれた。夢はまだ遠いのか、それともすぐ側にあるのに気づかないだけなのか。
30歳の誕生日まで、と自分の中で目標を立てて縋り付いてみることにする。でも今は、しばらくこの場所で空を見てようと思うのだった。
おわり
『透と祐希』
同棲を始めて12年。お互いに言葉を交わさなくてもいろいろわかるようになっていた。
おはようとかお疲れ様とか、そんな会話はあるけど、同棲を始めた頃に比べたら、お互い口数は減っていった。
(祐希はいつもブラックだったわ)
コーヒーを淹れた透は、無意識にミルクを入れてしまってからハッとした。自分も飲むつもりだったから、これは自分用にシュガーも入れようと棚に手を伸ばす。
「おはよ」
眠そうな顔で寝癖をつけたままの祐希がダイニングへやってきた。いつもの自分の席に腰を下ろして大きな欠伸をしている。
「おはよ。昨日も遅かったね」
「まぁね。この時期は忙しいから」
テーブルには厚めの食パンにマーガリンを塗り、その上にスライスチーズを乗せグリルしたこんがり食パンが皿に乗っている。
スライスチーズが目玉焼きだったり、スクランブルエッグだったりするが、今日はスライスチーズの気分だった。
朝食を準備するのは決まって透で、そのメニューに祐希が文句を言うことは一切なかった。
「そっか。俺は自宅仕事だし今はそんな忙しくないけど、祐希は大変だね」
「まぁね」
透は祐希の向かいに座り、朝食を食べ始める。リビングのテレビは朝の番組が点いていて、高校生特集が流れていた。それをときどき見ながら食べ続ける。
「ごちそう様」
先に席を立ったのは祐希だ。テーブルの食器はそのままに洗面所に向かい、歯ブラシを咥えたまま自分の部屋に入っていった。これもいつものこと。着替えて出勤の準備をするのだ。
(お馴染みの光景だな)
少し遅れて透も食べ終わり席を立つ。祐希の食器も合わせてシンクへ持っていき、片付けを済ませた。
「今日も遅くなるから」
「うん」
自室から出てきた祐希はスーツに身を包みすっかり準備が整っていた。いつの間にか寝癖もなくなっており、今日もやっぱり格好いいと思う。
透は玄関まで祐希を見送るために向かった。黒の革靴に足を入れている祐希の背中を見つめる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
毎日の言葉だ。
「うん、行ってくる」
祐希がそう言っていつもは振り向かないで出ていくのだが、今日は透の方に向き直り顔を見てくる。どうしたの? と透が小首を傾げて無言で問う。
「いつも、ありがとう」
照れくさそうに言われて透は面食らう。
「え、あ、うん。どうしたの?」
「いや、ありがとうって、あんま言ってなかったなって、急に思ってさ」
祐希の目元にすっと赤みが指す。こんな顔は久しぶりに見る気がした。
「うん。俺も、ありがとう」
透は自分より頭ひとつ分背の高い祐希に抱きついた。今でも愛しくて、好きで好きでしかたがない人。ずっと抱き合っていたかったが・・・・・・。
「あ、時間」
焦ったような祐希の声に、透は慌てて腕を離した。
「ごめん。今度こそいってらっしゃい」
「うん、いってきます」
ドアが閉まる前に振り返った祐希が、小さく手を振って微笑んだ。いつもは振り返りもしないのに。
立ち尽くす透は閉まったドアを見つめ、顔を真っ赤にさせその場にしゃがみ込む。
「なんだ? 祐希のやつ・・・・・・」
今日の夕食は祐希の好きなメニューにしてやろう、と思う透なのだった。
おわり