saha

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5/26/2023, 4:22:43 PM

「月に願うなら今日はやめときなよ」
ベランダの蹴破り戸越しに、年上の女性が言う。酒焼けのしたざらざらとした声は抑揚がふわふわと不安定で、匂う距離ではないのに酒精交じりの空気が籠もっているみたいだった。
「あんたの宗教が月に祈れって言うならそれでもいいけどさ」
「そういうのでは……」
「だったらあと二週間後にしなよ。満月に祈るのはよしな」
「どうしてですか?」
それこそ宗教みたいじゃないか。不満を隠しはしなかったが、酔っ払いのくせにそういうところばかりは察しがいいようで、ごめんごめんと板越しに宥められてしまった。何となく私は、いかにもなお店の「ママ」みたいなのを想像した。
「だってこれから欠けていくものに願うなんて、験を担ぐには向いてないじゃない。それに奇麗な時にばかり祈られちゃあ月も疲れちゃうよ」
それは他人を丸め込む理屈にしてはいささか馬鹿げている。しかしなぜか、そうかもしれないなぁなんて思わせる不思議な説得力を持っていた。
高層マンションの中層階。全てを見下ろすと言うには半端な高さのここからでも、ポツリポツリとベランダに出て月を眺めている人が見える。地上の人も皆見上げていた。明日は首が痛いと言い出す人がたくさんいるかも。
こんなに機嫌良さそうにぴかぴかの月なのだ。誰だって祈ってみたくもなるじゃないか。そう思うと、隣人のアドバイスは余計に響いた。奇麗な時にだけこちらを見て祈る人間って、とても身勝手な気がしてくる。
「あんただって、調子のいいときにだけ話かけてくるやつより、へこんだときにも同じようにしてくれるやつの話を聞きたくなるもんだろう」
「……確かに、そうかもしれませんね」
私は結び目のように握った手のひらを解いた。
「いい夜だよ。本当にね」
それじゃ、おやすみと隣人はさっさと中に戻っていった。
あと二週間。祈るしかないと思っていたけれど、二週間ならもう少し足掻いてみようかな。だめだったら今度こそ、お願いしてみよう。

5/25/2023, 8:11:54 PM

雨の音が随分と続きすぎて、今では逆に聞こえなくなってきた。
ずっと耳に届く雑音は頭の中で勝手に消されてしまいらしい。海外では蝉の声がわからないとか、そういう。脳みそって便利な作りしてるな、と感心した。
薄らとしたホワイトノイズは、外界の認識を鈍らせる。膜を一枚隔てたみたいに。湿気による空気の重さや低気圧による息苦しさがその膜の実在性を一層錯覚させた。
体中に何かがまとわりついているような気がしてならない。だからこんなに動きたくないのか。
怠さに逆らわず瞼を下ろすと、その膜は幾重にも重ねられていくような気がした。蜘蛛の巣を貼られる銅像ってこんな感じかもしれない。
(蛹だ)
瞼のごしの薄ぼんやりした闇の中で、どんどん重なる膜がまあるく全身を包んでいるのを想像した。
さぁさぁと膜ごしの遠い音を聞きながら、今度は蛹として四肢がどろりと溶け出すのを妄想した。
なんせこんなにも怠いのだから、溶けてしまってもおかしくないんじゃないか。そんな気さえしてくる。
何になるんだろう。今までが幼虫だった想定はなかったので、この蛹を脱いだあとはどういう生き物に変態するのか。あぁ、怠いのも変態のためのエネルギーを使っているからなんだ。溶けた体を作り直すエネルギーはきっととてつもないものだ。
しかし、この体には朝に適当にいれた食事しかなかった。きっと足りない。足りないから、怠い。そして起きていられない。

雨は丁度夜明けと共に去って行ったようだ。あんなに居座っていた割に別れ際はさっぱりとしたものだ。
右腕を持ち上げる。それから左足、右足も。ある。当然だ。何も変わらない私の四肢だ。
でもなんだか、作り変わったような清清しさが残った。どうやら完全変態を遂げた気分になったらしい。
雨が上がって目覚めがすっきりとした、それだけでなんだかじっとしていられないほどそわそわしている。
どこへ行こうか。いや、どこへ行ってしまうんだろうか。今日は気持ちよりからだが勝手に逸るように動いてしまいそうだから、行き先なんて今から決められないだろう。
しかし、その前に、だ。適当な食事をするわけにはいかない。今のこの体に十分なエネルギーを入れなければ。
「いただきます」