「月に願うなら今日はやめときなよ」
ベランダの蹴破り戸越しに、年上の女性が言う。酒焼けのしたざらざらとした声は抑揚がふわふわと不安定で、匂う距離ではないのに酒精交じりの空気が籠もっているみたいだった。
「あんたの宗教が月に祈れって言うならそれでもいいけどさ」
「そういうのでは……」
「だったらあと二週間後にしなよ。満月に祈るのはよしな」
「どうしてですか?」
それこそ宗教みたいじゃないか。不満を隠しはしなかったが、酔っ払いのくせにそういうところばかりは察しがいいようで、ごめんごめんと板越しに宥められてしまった。何となく私は、いかにもなお店の「ママ」みたいなのを想像した。
「だってこれから欠けていくものに願うなんて、験を担ぐには向いてないじゃない。それに奇麗な時にばかり祈られちゃあ月も疲れちゃうよ」
それは他人を丸め込む理屈にしてはいささか馬鹿げている。しかしなぜか、そうかもしれないなぁなんて思わせる不思議な説得力を持っていた。
高層マンションの中層階。全てを見下ろすと言うには半端な高さのここからでも、ポツリポツリとベランダに出て月を眺めている人が見える。地上の人も皆見上げていた。明日は首が痛いと言い出す人がたくさんいるかも。
こんなに機嫌良さそうにぴかぴかの月なのだ。誰だって祈ってみたくもなるじゃないか。そう思うと、隣人のアドバイスは余計に響いた。奇麗な時にだけこちらを見て祈る人間って、とても身勝手な気がしてくる。
「あんただって、調子のいいときにだけ話かけてくるやつより、へこんだときにも同じようにしてくれるやつの話を聞きたくなるもんだろう」
「……確かに、そうかもしれませんね」
私は結び目のように握った手のひらを解いた。
「いい夜だよ。本当にね」
それじゃ、おやすみと隣人はさっさと中に戻っていった。
あと二週間。祈るしかないと思っていたけれど、二週間ならもう少し足掻いてみようかな。だめだったら今度こそ、お願いしてみよう。
5/26/2023, 4:22:43 PM