確かあれは15歳の時に学校で書いた手紙だったな。5年後の自分への手紙。確か当時好きだったゲームやアニメ、人生についてのちょっとした方向性を書き記していたと記憶している。何処にいったのかは分からない。今読めば、その楽観さと無邪気さに郷愁を覚えるのだろう。当時の僕の苦しみなんて考えもせず、無責任にあの頃は良かったと。結局のところ、過去の記憶というのは断片的な表層で構成されていて、ある意味でそれはどの世界にも存在しない架空の世界なんだ。
久しぶりにベランダに出た。外に出るのは3日ぶりぐらいだろう。中空に上がった太陽の輝きは僕の皮膚と骨を貫通して、脳を直接暖めていた。
僕はいま京都行きの深夜バスに乗っている。高校の卒業旅行という形で、3泊4日を京都で過ごすんだ。普通の人なら、それは楽しくかけがえのない思い出を作ろうと思うんだろうけど、僕は違う。僕の頭の中にあることは、これから送る経験は人生の中ではあまりにも短く、楽しすぎるという懸案だった。恐らく、この旅は僕の人生の中でも比類のない程に幸せな数日間になる。しかし、そうなると旅が終わった後、僕の脳はその楽しい経験をもっと味わいたいと司令を出し続けるようになる。これがなかなかに困ったもので、以前と同じように生活していても、それまでは感じなかった空虚さや物足りなさが僕の体に纏わりつくようになってしまう。つまり、このたった数日間の刹那的な幸福がその後何ヶ月間の不満を植え付け、これは人生全体の効用という観点では、むしろ旅に行かない方がいいと言う考え方だって出来る。京都旅に終わりがあるが、我々は限りある無限の旅を続けなければならない。だからこそ、僕が思うのは「時間よ止まれ」ということだ。
目を開けると、視界は暗闇で埋め尽くされていた。まるで、黒に純色があるかのようなドスの効いた黒色だった。
何秒か経ってくると、徐々に目の焦点が合わなくなり、形容しがたい図形のようなものが視界で蠢くようになってきた。
そして、そこは何の匂いもしなかった。匂いが消された時の特有のものすら無かった。きっと、1度消臭剤で匂いを取り除いて、そしてその匂いの無い匂いをまた違う消臭剤で消して、そしてそれを循環させ続けたのだろう。
一方で、風は不気味なほど強く吹いていた。顔の正面から後ろにかけて、舐められるような生暖かい風が吹いていた。そして、その風と体の衝突が唯一僕の存在の根拠になっていた。
視界に蠢く図形が収まってくると、微かに耳に何か聞こえ始めた。それは、時間が経つ度に強くなっていく。それはかなり慎重になる必要がある類の音だ。音声といっても、音と声はかなり違うところがあるのだ。僕の名前を呼んでいる。聞き覚えのある声で。
「ありがとう」
「急にどうしたのよ」
「いや、何となくそう言った方が良い気がしたんだ」
「何となくそう言った方が良い気がした」
「そう。これは僕の中で完結してる事だから、気にしなくていいさ」
「あのね、行為までの道筋があなたの中にあっても、結局それを外に出してしまったら、もうあなたの中では完結していないのよ。急にそんなこと言われたら、気になるじゃない」
「確かに、君の言う通りだ。すまないと思ってる。ただ、これは本当に説明が難しいことだし、僕の中でもそれを上手く抽出できないんだ。つまり、回路をつたって来たものの、その仕組みや全体像は分からないまま外に出てしまったんだ」
「そんな完璧に説明しろと言ってる訳では無いの。ただ、便宜的なものでも良いから、何かしらの説明が欲しいと思ったの」
「便宜的というのも難しいんだ、つまり」
「もういいわ、あなたが私に感謝したかったことは分かったわ。どういたしまして」