『プロポーズ』
「ねェ佳奈。覚えている?僕たちがこの家に越して来たのがちょうど一年前の今日のことだ。どうにも此処で暮らし始めてから、時間の流れが途端に早くなったように思うよ。荷物を解いて家具を置いたのが、まるでつい昨日のことのようだ」
検討に検討を重ねて昨年ようやっと購入に踏み切った、地下つき二階建てのログハウス。
黒い雲から分厚い雪がボソボソと降り続いている。静謐な部屋には暖炉の薪木の燃える些細な音と、レコード盤から流れる湿やかな洋楽の旋律のみが続いていた。
「色んな映画を観たね。洋画も邦画も、ロマンスもスリラーも。君は映画館へ行くのがとても好きだったから、僕も随分張り切って色々と集めてしまった」
プロジェクター横のシェルフにギッシリと詰まったビデオディスクは、僕がこの一年間彼女に捧げ続けた愛情の結晶である。
佳奈はしかし、これまでにただの一度もそれらを喜んでくれたことが無い。
気まぐれで気難しい彼女のことだ。きっと素直に心の裡を曝けることが気恥ずかしいというのも少なからずあるのだろう。多少寂しくはあるが、この程度は何ら問題ではない。ジブンにとっては彼女と共に居られるこの時間こそが、何にも換え難い至上の幸福なのである。
「嗚呼、そうだ。明日は湖のほとりへ散歩に行こうか。ひょっとすると氷が張っているかもしれないよ。朝に見に行くのがきっと綺麗だろうな。…ウン、そうしよう」
彼女の髪を優しく梳く。一本も抜け落ちてしまわないよう、慎重に。
「…アレ、少し乾いてきてしまったね。待っていて」
霧吹きを持ってきて、佳奈の干涸びた土色の皮膚へと中身を吹きかける。湿り気を帯びた表皮は腐敗した柔らかさを束の間取り戻し、触れると透明な糸を引いた。
「君はこの家に来るのを最後まで随分と嫌がっていたけれど…ホラ、どうだ。ステキな一年間になったろ?」
車椅子に座らせた佳奈の手を取って、そっと掌に包み込む。間違ってもパキリと手折ってしまうことなど無いように、ほんの僅かにだけ力を込めた。
「大好きだよ。これからもずっと僕の側にいてほしい。…ハハハ。ちょっと気障ったらし過ぎたかな」
今の彼女を愛し続けられるのは僕だけなのだ。僕が彼女以外を愛せないのと同じように、腐り果て干涸びた彼女には僕しかいない。土にも天にも墓石にも、譲り渡してやる気は毛頭無かった。
「来年もよろしくね、佳奈」
『悩める果実』
「寒くて水が少なくて、どうしようもなく苦しい所での方が甘くなるのよ、この子たち。不憫でしょう」
香織は頭上の木に成ったみかんの実をひとつプツリともぎ取ったのち、ふと譫言のように呟いた。
「…不憫も何もあるものか。ただの習性だよ。ましてや食い物の話だろう。どうしてそうお前は何にでも気持ちを入れたがるんだ。馬鹿馬鹿しい」
この女はいつもこうだ。花に水を遣るのに言葉なぞ要らないし、魚の活け造りに同情など不要である。それをマア毎度毎度飽きもせず、「可哀想」だの「不憫」だのと。
香織は暫くのあいだ掌中に収まる果実を一心に見つめていたが、やがてひとつに結えていた髪をゆるゆると解き出す。柑橘の香りのする風に腰まである黒髪を靡かせながらコックリと俯いて、とうとう一言も喋らなくなってしまった。
嗚呼、俺はきっと何かを間違えたのだ。このままでは不味かった。熟れた果実が腐り始める時の、甘ったるくて水っぽい、それでいて苦いあの香り。彼女の死んだ目の色はあれによく似ている。
「…アタシの前世は、このみかんだったのよ」
香織の手からみかんの実が、ボトリと鈍い音を立てて転がり落ちる。
まるで斬首刑にかけられた人間のアタマの如く、不吉で重々しい音を立てるのだ。
「…貴方の言葉と体に飢えて過ごす時間がどんなに苦しかったか、きっと貴方には二度と分かることが無いのでしょうね」
香織の目の縁からグジュリと、潰れたみかんの実が溢れ出した。
目が覚めると、ベッドサイドにはむせ返るほど強烈な柑橘の香りが充満している。窓から透明な朝日の差し込む傍ら、カーテンレールには黄色い体液の滴る香織の縊死体がぶら下がっていた。
『冬の怪物』
目が醒めると、異様な喉の渇きを感じた。肩にはジブンで掛けた覚えのないブランケットが被さっていて、肘から下はすっぽりと炬燵の中に収まっている。どうやらいつのまにか寝落ちてしまっていたようである。
はめ殺しの窓の外、銀色の雪が音も無く降り続いていた。白い地平線は遥か彼方に、まるで灰の冬空を抱きしめるが如くなだらかに横たわっている。
「…イブ。そこにいるの」
明るく、暖かく、優しい部屋の中。
苦痛も苦悩も何ひとつ存在しないこの場所に、僕は監禁されていた。いつからのことだかは分からない。始まりは、もう気が遠くなるほど昔のことである。
イブ、と僕が名前を呼べば、彼女は現れる。彼女はこの空間の支配者なのだ。
無数のガムランボールが背後でクッキリとした音を立てた。生クリームみたくたっぷりとした真っ白なシフォンスカートに、赤いレースのブラウス。目深に被ったキャペリンの縁には、音の発生源である夥しい数のガムランボールがあしらわれている。彼女は信じられないくらい背が高くて、肌が雪のように白かった。
「キミが掛けてくれたのだろ。この毛布」
イブは応えない。彼女は人の言葉が嫌いである。意味が分かるし、多分話せる。けれどイブが僕の問いかけに答えてくれたことは、ただの一度もない。
「…暖かいよ。ありがとう」
ジャリンと重々しい鈴の音が鳴って、彼女が細い腰を屈めた。赤い爪が髪を梳き、白くて薄い死人の唇がそっとツムジに口付けを落とす。それはちょうど、どうか悪夢を見ないようにと母親が眠り落ちる小さな子供へと贈る祈りのようなキスだった。
もう少し眠りなさいと、そう言われたような気がする。
「…ウン。おやすみ」
シンナーのような眠気にドロドロと意識が溶けていく。雪は一向に降り止む気配がなかった。
冬休みが続く。優しい箱の中、いつまでも。