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『悩める果実』

「寒くて水が少なくて、どうしようもなく苦しい所での方が甘くなるのよ、この子たち。不憫でしょう」

香織は頭上の木に成ったみかんの実をひとつプツリともぎ取ったのち、ふと譫言のように呟いた。

「…不憫も何もあるものか。ただの習性だよ。ましてや食い物の話だろう。どうしてそうお前は何にでも気持ちを入れたがるんだ。馬鹿馬鹿しい」

この女はいつもこうだ。花に水を遣るのに言葉なぞ要らないし、魚の活け造りに同情など不要である。それをマア毎度毎度飽きもせず、「可哀想」だの「不憫」だのと。
香織は暫くのあいだ掌中に収まる果実を一心に見つめていたが、やがてひとつに結えていた髪をゆるゆると解き出す。柑橘の香りのする風に腰まである黒髪を靡かせながらコックリと俯いて、とうとう一言も喋らなくなってしまった。
嗚呼、俺はきっと何かを間違えたのだ。このままでは不味かった。熟れた果実が腐り始める時の、甘ったるくて水っぽい、それでいて苦いあの香り。彼女の死んだ目の色はあれによく似ている。

「…アタシの前世は、このみかんだったのよ」

香織の手からみかんの実が、ボトリと鈍い音を立てて転がり落ちる。
まるで斬首刑にかけられた人間のアタマの如く、不吉で重々しい音を立てるのだ。


「…貴方の言葉と体に飢えて過ごす時間がどんなに苦しかったか、きっと貴方には二度と分かることが無いのでしょうね」


香織の目の縁からグジュリと、潰れたみかんの実が溢れ出した。





目が覚めると、ベッドサイドにはむせ返るほど強烈な柑橘の香りが充満している。窓から透明な朝日の差し込む傍ら、カーテンレールには黄色い体液の滴る香織の縊死体がぶら下がっていた。

12/29/2023, 12:06:58 PM