彼女は昔々は大層優秀で、何某かの賞だとか、さまざまの優勝だとかを山ほど取って歩いており、才女だ天才だと持て囃されていたのだが、あるとき道端で猫を撫でている冴えない男を見かけて自分もその猫を撫でてみたくなり、わたしも撫でていいですか、ええ野良ですから大丈夫だと思いますよ、などと一言二言喋ったところでその猫は男の後ろに隠れて彼女には見向きもせず、そんなことがもう大変に悔しく気に食わず、むすくれたところを、男が何やらひどく微笑ましげに見ているのに気づき、そのせいなのかなんなのか、なんだかそれまでのピンと張っていたものが緩んでしまって、それで彼女は天才をやめ、猫を愛でる穏やかな生活を開始して十年経つ……というところで、今、彼女は病を得た愛猫の背を優しく撫でながら、さて、たまには天才をやってやりますか、と言ってにゃあにゃあと猫語を喋りだし、どこが痛いとか何が気になるだとかを本猫に聞き取り始めたのである。
#たまには
飴玉をあげたかった。
大きくてきらきらの、ストロベリーのやつを。
アイスクリームをあげたかった。
甘くとろける、バニラとクッキーのやつを。
チョコレートをあげたかった。
素敵な缶からに入った、宝石みたいなやつを。
花束をあげたかった。
優しい色の、ばらとかすみ草でできたやつを。
指輪をあげたかった。
ささやかに輝く、ダイヤモンドのついたやつを。
僕の一生をあげたかった。
たいしたことなくても、誰より君を愛してるやつを。
#大好きな君に
美しくて、少し寂しい人だった。
どうして「寂しい」と思うのか、よくわからない。
軽く伏せた睫毛の向こう側で、黒い瞳があんまり静かに見えたから。それとも、いつもささやかに微笑うくちびるの端に、時折、笑みとは違う角度を宿していることがあるから。
あのひとはいつも、夕の陽に似ていた。
眩しさの背中に、宵の暗さを柔らかく纏っていた。
けっして輝かしいばかりではない人だったのに、あのひとはわたしにとって、沈まぬ太陽のような人だった。
わたしはあのひとが好きだった。たぶん、誰よりも。
#太陽のような
自分もいつか、この枝を離れていく。
わたしたちはやがて、今の枝を失う。
日差しの下で、風に乗ってさらりと。
あるいは雨の雫の重みで、ほろりと。
星の瞬きに押されるようにするりと。
さよならの時を着飾って散っていく。
どこへとも知れず、いつとも知れず。
頬に感じるものだけを頼りに行こう。
目を瞑っていても、きっと怖くない。
#枯葉
昨日と今日と明日とをほんとうに隔てているのは、時計の針ではない。
深夜、時計の上ではもう昨日だけど、この瞬間はまだ今日で。
時計の上ではもう今日だけど、夜明けの先には、まだ明日が控えている。
わたしたちはそんなふうに、真夜中の底で時間を曖昧にする。
午前一時二十三分。今日からはみ出した今日。本当は明日だったはずの今。
布団に入って目を閉じて、今日もまた、カギカッコつきの『今日』にさよならをする。
わたしたちは毎日、瞼で日付を切り分けるのだから。
#今日にさよなら