やさか

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3/14/2025, 7:34:55 PM

 あの頃、ちょっとばかりつるんでいただけの君を探すのに、僕は現実のどこへ行くこともできず、記憶の海に潜る。
 水によく似た、しかし水ではない思い出の揺らめきの中、頬に触れる、あの日の湿った風のにおい。カーテンの布地の上に留まっていた灰色の光。何処かの誰かが、誰かを呼ぶ声。でかいばかりで薄汚れた机を前に、パイプ椅子をキイキイと鳴らしていた君。
 君に会えるのは、もうここでだけだな。
 よう、と彼の肩に触れる。俺と全く同じ体温をしている。もう、体温のことは忘れたから。
 振り返る君の、やっほ〜、という気の抜けた声。その言い方は分かるのに、どんな声だったか、もう思い出せない。人は声から忘れるらしいから。
 君は今、どこにいるんだろう。僕の声は、君だってきっと忘れただろうけれど。
 まだ思い出せるかな。思い出す瞬間があるだろうか。
 僕を探して記憶の海に潜る日が、一日くらいは。

 #君を探して

3/13/2025, 12:25:29 PM

 何を忘れたのか、もう忘れてしまった。
 遠ざかり、遠ざかり、遠ざかって、掠れてしまった。
 あの頃、何があったっけ。
 あの日、誰が一緒だったかな。
 わたしはどんなことを言っていただろう。
 振り返ればそこにあるはずの、たくさんの過去。
 失くしたわけでも、消えたわけでもない。
 ただ、それは、透明になってしまった。
 悲しいほど静かに、見えなくなってしまった。
 さよならを言う間も、なかった。

 #透明

3/12/2025, 12:41:28 PM

 一日って、どうして真夜中に始まって終わるのかしらね。夜明けの瞬間でも、日没の瞬間でもなくて、夜の真ん中に。
 目を閉じた真夜中、今が今日なのか明日なのか昨日なのかわからないままの夢うつつ。終わりとはじまりの間を漂うひとときにも、わたしたちは確かにそこにいて、柔らかに時の中を流されていく。
 深い夜のくらやみの中を。

 #終わり、また初まる、

3/20/2024, 1:02:23 PM

 さよならを言っておけばよかったな。
 きっと夢だとわかっていたのに、言ったら壊れてしまうと思ってなんにも言わなかった。
 薄く靄のかかった安らぎの中で、あなたの隣にいられることに甘えていた。目覚めて遠ざかっていくなにもかもを留めておけないのに、その幸せな手触りだけが残っている。
 さよならを言っておけばよかった。幸せだと言えばよかった。
 今はもう顔もわからない、あなたに。


 #夢が醒める前に

3/5/2024, 2:42:01 PM

 彼女は昔々は大層優秀で、何某かの賞だとか、さまざまの優勝だとかを山ほど取って歩いており、才女だ天才だと持て囃されていたのだが、あるとき道端で猫を撫でている冴えない男を見かけて自分もその猫を撫でてみたくなり、わたしも撫でていいですか、ええ野良ですから大丈夫だと思いますよ、などと一言二言喋ったところでその猫は男の後ろに隠れて彼女には見向きもせず、そんなことがもう大変に悔しく気に食わず、むすくれたところを、男が何やらひどく微笑ましげに見ているのに気づき、そのせいなのかなんなのか、なんだかそれまでのピンと張っていたものが緩んでしまって、それで彼女は天才をやめ、猫を愛でる穏やかな生活を開始して十年経つ……というところで、今、彼女は病を得た愛猫の背を優しく撫でながら、さて、たまには天才をやってやりますか、と言ってにゃあにゃあと猫語を喋りだし、どこが痛いとか何が気になるだとかを本猫に聞き取り始めたのである。


 #たまには

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