どこにもいかないよ、と、言うのは簡単。
離さないよ、と、抱きしめるのは簡単。
頬に触れて、髪を撫でて、くちづけて。
そんなふうにするのは、こんなに、こんなに簡単で。
だけど、ぼくには。
もう二度ときみに嘘はつかないよ、とは、言えない。
言えない。どうしても言えない。
だから、君の手にさえ、触れられないままでいる。
#もう二度と
あの頃、ちょっとばかりつるんでいただけの君を探すのに、僕は現実のどこへ行くこともできず、記憶の海に潜る。
水によく似た、しかし水ではない思い出の揺らめきの中、頬に触れる、あの日の湿った風のにおい。カーテンの布地の上に留まっていた灰色の光。何処かの誰かが、誰かを呼ぶ声。でかいばかりで薄汚れた机を前に、パイプ椅子をキイキイと鳴らしていた君。
君に会えるのは、もうここでだけだな。
よう、と彼の肩に触れる。俺と全く同じ体温をしている。もう、体温のことは忘れたから。
振り返る君の、やっほ〜、という気の抜けた声。その言い方は分かるのに、どんな声だったか、もう思い出せない。人は声から忘れるらしいから。
君は今、どこにいるんだろう。僕の声は、君だってきっと忘れただろうけれど。
まだ思い出せるかな。思い出す瞬間があるだろうか。
僕を探して記憶の海に潜る日が、一日くらいは。
#君を探して
何を忘れたのか、もう忘れてしまった。
遠ざかり、遠ざかり、遠ざかって、掠れてしまった。
あの頃、何があったっけ。
あの日、誰が一緒だったかな。
わたしはどんなことを言っていただろう。
振り返ればそこにあるはずの、たくさんの過去。
失くしたわけでも、消えたわけでもない。
ただ、それは、透明になってしまった。
悲しいほど静かに、見えなくなってしまった。
さよならを言う間も、なかった。
#透明
一日って、どうして真夜中に始まって終わるのかしらね。夜明けの瞬間でも、日没の瞬間でもなくて、夜の真ん中に。
目を閉じた真夜中、今が今日なのか明日なのか昨日なのかわからないままの夢うつつ。終わりとはじまりの間を漂うひとときにも、わたしたちは確かにそこにいて、柔らかに時の中を流されていく。
深い夜のくらやみの中を。
#終わり、また初まる、
さよならを言っておけばよかったな。
きっと夢だとわかっていたのに、言ったら壊れてしまうと思ってなんにも言わなかった。
薄く靄のかかった安らぎの中で、あなたの隣にいられることに甘えていた。目覚めて遠ざかっていくなにもかもを留めておけないのに、その幸せな手触りだけが残っている。
さよならを言っておけばよかった。幸せだと言えばよかった。
今はもう顔もわからない、あなたに。
#夢が醒める前に