一面の闇だ。
今夜の空には、磨きあげた鏡のような月も、砂金を撒けたような星もない。煤けたような黒が、空を呑み込んでいる。一寸先さえ、何も見えない。真っ暗だ。息をすれば、肺さえ闇に満たされそうなほどの。
闇の中を、彼女は走る。
靴は脱げ、白い足には泥が纏わりつき、滑らかな肌は傷だらけで血が滲んでいる。しかし構わずに、彼女は走る。まるで、何かから逃げるように――何から? もう、何もかも終わってしまったのに。
彼女のたいせつなものは、一つ残らず壊れてしまった。守りたかったもの。守ると決めたもの。すべて。
逃げたところで、彼女はもう、ひとりぼっちだ。
思えば、いつも彼女の人生は闇の中にあった。
誰にも望まれなかった子ども。誰からもあいされなかった少女。いつもいつも、ひとりぼっち。
彼のひとが、彼女を見つけるまでは。
光のようなひとだった。どんな苦境に置かれても折れることなく正義をつらぬく、眩しいほどに真っ直ぐなひと。彼だけが、彼女の光だった。
前を向きなさいと、彼はいった。
前を向きなさい。俯くのはもうやめなさい。闇というものは、光があるから生じるものだから。闇が濃ければ濃いほどに、眩い光がきっとあるから。どうか、その光をさがして。
生きなさいと、彼はいった。
だから彼女は、闇の中を走る。
走りつづければ、いつかはこの夜も空けると信じて。
彼の遺した言葉だけが、いまはただ、暗がりの中にいる彼女を導く光。
紅茶は、好きでも嫌いでもなかった。
自分で淹れることはないけれど、たまにコンビニでペットボトルにつめられたものを買うことはある。
私と紅茶は長年そうした距離感を保って、付かず離れずの関係を続けてきた。
それは、いまも変わらない。
マホガニーのテーブルを挟んであなたと向かい合ったいまでさえ、私は紅茶が好きでも嫌いでもない。
あなたは紅茶が好きだ。
だから、あなたとふたりで出かけるときに入る喫茶店は、必ず紅茶の美味しい店。
きょうもそう。
メニューには、ダージリンとか、ウバとか、私でも聞いたことがあるような有名な茶葉から、ディンブラだの、ヌワラエリヤだのという聞いたこともない呪文のような名前の茶葉まで並んでいる。
あなたが注文するのは決まってダージリン。オータムナウがあればそれ。ダージリンにも種類があるということは、あなたが教えてくれた。
私はいつも、レディ・グレイ。好きな茶葉を訊かれて「レモンティー」と答えた間抜けな私に、あなたがすすめてくれた香り。
美味しいかどうかは正直わからないけれど、あなたがすすめてくれたから、好き。
紅茶は好きでも嫌いでもないけれど、紅茶が好きなあなたは、好きだから。
だから、わかる。わかってしまう。
あなたが好むダージリンの紅茶が、あなたに飲まれることもなくそのまま冷めていくわけが。
「あのさ」
紅みがかった小さな水面をじっと見つめたまま、あなたが口を開く。その先を聞いてしまえば、きっともう戻れない。
あなたの声が聞こえないふりをして、カップに口を付けた。
濃い柑橘類の香りが鼻先をくすぐる。爽やかで、華やかな香り。あなたが教えてくれた香り。
レモンティーが好きなら、きっと気に入るんじゃないかな。控えめなあなたの声が、あたまの中でリフレインする。
唇にふれたレディ・グレイは、もうすっかりと冷めていた。
永遠なんて、有り得ないと思う。
形があるものはいつか壊れるし、命の灯もやがては消えてしまう日が来る。青空に燦然とかがやくあの太陽でさえ、いつかはその命の幕を閉じるのだ。
まして、友情なんて。
進学、就職、結婚に出産。ひととひとが疎遠になるきっかけなんて、いくらでも思いつく。
あきらかな契機がないまま、なんとなく疎遠になることもあるだろう。そうして自然消滅した友情は、私にもいくつか覚えがある。
それでもあなたが、私たちの友情を永遠だと謳うなら。まるで疑いを知らない調子で、永遠を望むから。私も、永遠を信じてみたくなる。
私たちは永遠に友達だと、言ってみたくなる。
あなたの白く細い首筋に、掌を重ねる。
規則正しく上下する喉。じんわりとした熱。柔らかな肌。掌ごしに伝わるあなた。生きているあなた。その全てを、あなたが支配している。鼓動を刻む心臓も、繰り返される呼吸も、あなたの全てはあなたのもの。だから、ね?
あなたの首筋に重ねた掌。その指先に、少しだけ力を込める。このまま力をゆるめずに、あなたの目が覚めるまでに、あなたの時間を止めてしまったら。
あなたの命は、私のものになるかしら。