一面の闇だ。
今夜の空には、磨きあげた鏡のような月も、砂金を撒けたような星もない。煤けたような黒が、空を呑み込んでいる。一寸先さえ、何も見えない。真っ暗だ。息をすれば、肺さえ闇に満たされそうなほどの。
闇の中を、彼女は走る。
靴は脱げ、白い足には泥が纏わりつき、滑らかな肌は傷だらけで血が滲んでいる。しかし構わずに、彼女は走る。まるで、何かから逃げるように――何から? もう、何もかも終わってしまったのに。
彼女のたいせつなものは、一つ残らず壊れてしまった。守りたかったもの。守ると決めたもの。すべて。
逃げたところで、彼女はもう、ひとりぼっちだ。
思えば、いつも彼女の人生は闇の中にあった。
誰にも望まれなかった子ども。誰からもあいされなかった少女。いつもいつも、ひとりぼっち。
彼のひとが、彼女を見つけるまでは。
光のようなひとだった。どんな苦境に置かれても折れることなく正義をつらぬく、眩しいほどに真っ直ぐなひと。彼だけが、彼女の光だった。
前を向きなさいと、彼はいった。
前を向きなさい。俯くのはもうやめなさい。闇というものは、光があるから生じるものだから。闇が濃ければ濃いほどに、眩い光がきっとあるから。どうか、その光をさがして。
生きなさいと、彼はいった。
だから彼女は、闇の中を走る。
走りつづければ、いつかはこの夜も空けると信じて。
彼の遺した言葉だけが、いまはただ、暗がりの中にいる彼女を導く光。
10/29/2022, 12:02:32 AM