八木

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6/19/2024, 1:16:53 PM

帰り道、ふと、雨が降りだしたことに気づく。
大した事ない雨だ。いつもなら気にとめずそのまま歩くが、今日は人に会う予定があるのであまり濡れたくない。
傘、あったかなと鞄を探ると、底の方にしばらく使ってなかったちいさめの折畳み傘を発見した。
ラッキー、と傘を開く。

しとしと降る雨の中を歩きながら、最後にこうやってこの傘を開いたのはいつだっけ、と思い返してみる。

あぁ、そうだ。
傘を忘れた彼をみかけたときだ。

彼とは普段良く話すわけでもないが、正面玄関でぼーっと立っていた彼の背中が、なんとなく寂しそうに見えて、不思議と泣いてるようにもみえたので、思わず、これ使う?と傘を差し出したのだった。
彼は最初きょとんとして、傘と私の顔を交互にみつめていたが、どうも、とぼそりとつぶやき、傘を受け取った。
そしてそのまま、持つから入って、といって傘をすこし傾ける。
私は私で、思いがけず声をかけたことに自分でびっくりし、その上一緒に入ることになるとは思ってもいなかったのでさらにびっくりしたが、なんとなく、促されるまま傘の中に入ったのだった。

小さめの傘の中、お互いほとんど話すこともなく黙々と歩いた。最初は少しそわそわしたが、案外居心地がよかったのを覚えている。傘は二人ではいるには小さくて、肩が少し濡れた。きっと彼もそうだったと思う。けれど不思議と嫌ではなかった。

てくてく歩きながら、傘の中にわざと1人分の空間をあけてみる。
いつかまた、この左隣が埋まる日が来るのだろうか。想いを馳せてみる。

6/18/2024, 1:24:38 PM

男はひとり屋上に立っている。
彼は何もかもにうんざりしていた。
日々退屈でしょうがない。
もういっそ、終わらせてやろう。
どうせ、俺ひとり居なくなったところで誰も困りやしないのだ。

一度終わりを考えると、なぜもっとはやくそうしなかったのかと疑問を覚えた。なんだ、簡単なことじゃないか。
目の前のフェンスをつかみ、つまさきを穴にひっかけてよじ登ってみた。
視界が少し高くなった。他人事のように真っ青な空がそのぶん近くなった。
息をすいこんだ。気持ちは落ち着いている。ためらいや迷いも特になかった。これ以外に正解はないように思えた。
男はするするとフェンスをのぼり、とうとういちばん上に腰掛けた。目をつむって、両手を離す。視界がゆっくりと傾いていく。
さよなら、せいせいするよ。

ごうごうと空気の流れる音を聞きながら落ちていく。男はつむっていた目をあけた。一瞬だと思っていたのに、意外と長い。
視界は普段エレベーターでみる景色の逆再生だ。窓からみえるすべての人間が、こちらを気にもとめずに一心不乱に机にむかっている。
ざまあみろ、俺は一足先におさらばだ。
そろそろ地面に到着か…案外あっさりだな、男が再び目を閉じるその一瞬、窓際にいた女と目があった。女はぽかんとこちらを見ている。
あ、俺のことをみている。
誰にもみられず終わるものだと思っていたのに。
でも、けっこう悪くないな。
男は不思議な満足感を得て、そのままもう目を開くことはなかった。