遠い記憶もまた刹那
以前、長崎の無言館で
戦時中の画学生の作品展示を
観に行ったことがある。
繊細に、丁寧に、
紡がれたそれは、
どの作品にも
重みがあり、
深みがあり、
愛があった。
どこか切なさも感じられるような
ひだまりのようなあたたかさ、
けれど説明的ではない
極めて純粋な
実直で洗練された作品たち。
生が当たり前となったこの時代に、
このような絵はもう描けない。
瞬間、瞬間を大事に生き、
愛する人との日常を、何気ない風景を、
一瞬を、大切に描き止めている。
現状を
受け止めながらも
向き合いながらも
絵を描き続けてきた画学生たち。
当時の刹那的瞬間が
身にしみて伝わった。
生きる意味とは
本来の自分を生きることだの
どーのこーのと
持論を展開させ
そのために必要なことを
結構な長文でいい感じにまとめようと頑張ってたのだけど
2回もその長文が断たれたので
もうそれについて書くのはやめます。
1回目は途中ラインをしてしまったこと、
2回目は電源が落ちました…
何が善いのか、悪いのか、
そんなこと考えたって
一千にもなりゃしない。
そのとき100%で生きていたら
それでいいんじゃないかと思う。
善いか、悪いか
ジャッジしないこと。
善悪なんて
考えるだけで無駄だ。
流れ星に願いをかけるなら、
何度も言ってることかもなんだけど、
色恋は好きではないんだけど
彼に会えますように、
一筋だな。
ルールに縛られる人生は
ごめんだぜと思っていた学生時代、
社会人になった今は
ある程度のルールがなきゃ
成り立つもんも成り立たないことが分かってきた。
ルールというものがあるからこそ
無意識のうちにでもそれを意識して、
世間一般の常識とやらを含めたルールに
なんとなく沿っていく、
これがなくては
みんなちぐはぐな言動になって
何をすべきか、どうあるべきか
わからないことが多いと思った。
意識せざるを得ない時ほど
面倒くさく感じるけれど、
人間勝手なもので、
社会人になって世の中に放り出されたら
ルールが曖昧だと、
プチ混乱に陥ってしまうこともあって、
重要性について気付かされ、必要とした。
誰かの敷いたレールの上すらも
歩くのはごめんだぜと思っていた学生時代だったけど
それすらも今は、ある程度の必要性を感じている。
その後、そこから派生、展開、発展していけばいいと。
だがしかし、
かっこ悪くなったものだと思う。
あんなにイキっていた時代が懐かしく思う。
もちろん、ルールに囚われ過ぎもよくない。
かえってそれは、自分のキャパオーバーを迎えて、
崩壊してしまう可能性がある。
ある程度くらい沿えればそれでいいと思う(運転とかはしっかり)。
最近は、車のルールについて改めて思うことがあった。
そのたくさんのルールのおかげで
事故を防ぎ、混乱を防ぐことがかなっていると思うと
そのルールを考えた人や信号なども含めて
よく考えられていて、すごいなと思うこと。
車も運転するときは
ルールに沿わなきゃいけないのが嫌で
通勤は、自分のリズムに合わせていける、
左側通行を意識して安全に配慮するだけの
自転車通勤にしているけれど、
道路を走る車を見ながら
すごいなと思いながら(それを守って運転してる人も)、
よく一人そんなことを考えて通勤している。
社会生活の中では
運転関係は別として
ある程度の規則は守りながらも
ルールに沿いたくないときは
無理して沿わなくてもいいと思った。
特に学生のうちはたくさん
エンジョイしてほしい。
だからといって
ハメを外したり迷惑をかけてはダメだよ
学生は学生なりの、
社会人は社会人なりのルールで
節度を持って生きること。
でも、
社会人になったらルールに縛られるとかではなくて
それは本人次第であるし、
意識のありようで変えていけるし、
自分なりに咀嚼して受け取っていけばいいから
周りを見て、経験を積んで、
学んでいけばいいから
そこは心配せず、
自分の感性を大切にしながら
ルールを守る、
節度を守る、
そのスタイルでいいと思う。
車の運転は、交通ルール命なので
なかなか教習に足が向かない私だけど
いずれ精神的にも余裕が出たら
それを受け入れる余地も出てきそうなので
頑張って、行ってみようと思います。