学校から帰ると、テーブルの上に見慣れない箱が二つ置いてあった。
そこへ母が帰って来たので、これは何かと尋ねた。母は気まずそうに
「うん…あのね、蝋燭立て」と言った。
「蝋燭立て?外国の絵本とかに出てくる?銀とか真ちゅうとかの?」
「ううん、ガラス」
話を聞くと、昼間家の前に突然若い(母によると超絶イケメンの)男の人が現れて、気の毒な身の上話を聞いてあげたところ、もしよかったら自分が作った蝋燭立てを買ってくれないかと言われ、少し迷ったが買ってあげたということだった。
「だってね、芸術家の卵だっていうのよ。応援したくなるじゃない?」
「高かった?お父さん、怒った?」
「怒鳴られちゃった。」
どうやら小学生の私には想像もつかない額だということは分かった。
「見せて見せて!」
そう言うと、母は少しワクワクしながら箱を開けた。
細長い箱から出てきたのは、本当に透明なガラスの燭台だった。取手のところがクルクルと捻ってあり、小さな気泡が浮いていた。
もう一つはワイングラスだった。
これは燭台を買ってくれたお礼なんだそうだ。持ち手は紫色でグラスの飲み口は分厚く、全体が傾いていた。どこか海の生き物を思い出す形だった。
夜になって姉や兄、そして父が帰って来て、口々に燭台とグラスの批評をした。要するに母はコロッと騙されてぼったくられたけれど、まあ一つ学んだね、今後は気をつけて、とその話はおしまいになった。
燭台とグラスは、サイドボードの隅に押し込まれるように飾られていた。
先日ふとこのことを思い出し、母に覚えているかと電話したところ、後日談があることが分かり驚いた。
その「事件」から半年ぐらい経った頃、郵便受けに無記名の小さな包みが入っていたそうだ。同封の手紙でその男の人からだと分かったらしい。
手紙には「怪しい自分のような者の話を聞いてくれた上に、作品まで買ってくれてとても嬉しかった」と綴られていたそうだ。
そして白い包みをぐるぐると解いてやっと出てきたのは、金色と銀色に輝く二本のキャンドルだったらしい。
「あの燭台に合うと思ったんでしょうね。蝋燭を立てたら驚くほど素敵になったの。彼に見せたかった。」
そう言って母は笑った。
あんなに近かったのに、
はなればなれになった
友達、兄弟、恋人、隣人。
今はもうあまり思い出せない。
声も、顔も、いつのことかも。
今、後ろを振り返る。
あれ、何もない。
あの細長い絨毯は?
自分が歩いた後とこれから行く先に敷かれてる細長い絨毯。
いつの間にか始まって、常に自分の足の裏にくっついてるもんだって、
長い間思ってた。
でも無い。なくなっちゃった。
ここに自分がいる。ただ一人いる。
あれが無いと過去も未来も辿ることができない。
ああそうか。
もうそんなことしなくていいってことか。
ただここにいる、存在してる。
在る。有る。
それだけでいいんだ。
今、誰かと肩を寄せる。離れる。
すぐ近くに気配。ふと遠ざかる。
また誰かと手を繋ぐ。その手を放す。
これでOK。
いつまでも。
意味がないこと
いやな気持ちになるニュースを流し続けてたこと
辛い記憶を蘇らせるだけの記念日を忘れないでいたこと
倉庫に溜め込まれた、見るたびにウッとなるモノたち
ただただバッドエンドの物語が詰まった本棚
これらの物と思い出を
そういうものだからと大切に
または単に無造作に
ぎゅっと握りしめてたこと
もういいんだ
もう手を離してもいいんだよ
ありがとう
さようなら
夕陽と指で作った影絵のきつね
夜の体育館に入った時の匂いと灯り
エレベーターの隅で震えるガガンボ
寄りかかる壁から伝わる背中の振動
分離帯の草の上に立ち尽くす人の顔
夕闇に漂って来るような煙の味
蜃気楼の映像に流れるエンドロール
大きな紙を両手で丸める大人の手
最後の段を両足ジャンプする幼い子
無線機のマイクに付いてる螺旋コード
屋上で肩を並べて話す若い人たち
空に吸い込まれていく笑い声
夜道に響く自転車のペダルの音
懐かしく思うこと
暗がりの中でメチャクチャに走り回ってた。壁にぶつかったり転んだり、とにかくもう大騒ぎ。
叫び過ぎて声は涸れ、体は汗だく。
やっと蛍光塗料で描かれた矢印の先に「出口」の文字を見つけた。
その時背後からウォーッと唸り声を上げて、何か恐ろしいものの気配が近付いて来た。
私たちは振り返ることもできず、キャーキャー叫びながら(多分笑顔で)出口に向かって全速力で走った。
怖かったあ!でも面白かったね!
最後どんなのが追っかけて来たのか見た?見てない。やっぱ見ればよかった。無理無理!
あれバイトの人?そうじゃない?
本当に真っ暗闇で怖かったね。
どうする?もう一回行く?
えー私はいいよ。どうせなら別のとこに行きたいな。
私はもう一回行ってみる。今度こそバイトの人をやっつけてやるんだ。
そっか、じゃまた後でね。
うん、また後で合流しよう!
……
すっごく時間かかったけど、
やっと慣れたよ。
慣れたらここはそんなに暗くなかったし、怖い役してるバイトの人なんていなかった。
それで…それでね、私、この場所に夢中になりすぎてコロッと忘れてた。
待ち合わせしてたことも、出口の矢印が上を向いていたことも。