大人になって、苦いものが食べられるようになった。
大人になって、辛いものが食べられるようになった。
子どもの頃に食べられなかったものが食べられるようになるのって、味覚が変化するかららしいね。
なんて、お酒を片手にかつて苦手だったものを食べる。
楽しいね、大人。
好き嫌いが無くなることって、「大人」を存分に噛み締められることだと思うんだよなぁ。
…うん、美味い。
昨日へのさよならも、明日との出会いも、私が寝てるうちに全部終わっちゃうんだ。
昨日さんへはおやすみって言って寝るけど、さよならはいつも言えない。私が寝てる間に昨日さんはそっといなくなっちゃうの。
昨日さんは明日さんが来るのを待って、バトンタッチして、みんなのことをよろしくねって言っていなくなるんだって。
これは何人目かの明日さんが教えてくれた話。
ねぇ明日さん、私昨日さんに会いたいよ。
明日さんが昨日さんになって離れていっちゃうのをちゃんとお見送りしたいよ。
だから起こしてよ。一緒に起きてようよ。
日付が変わるその瞬間を私と昨日さんと明日さんでふふって笑って迎えようよ。
私ばっかり仲間はずれにしないで。
ありがとねってギュッてハグして、元気でねってさよならしようよ。
はじめましてってお辞儀して、一緒に頑張ろうねってよろしくしようよ。
そうじゃないとさ、寂しくてやってらんないじゃん。
真夜中。私は外を歩くのが好き。
昼間の喧騒は無かったかのように、眠る街を練り歩くのが好き。
私だけが起きていて、私だけがこの世界にいるようなあの感覚が好き。
玄関から外へ出るときの、海に飛び込むようなあの瞬間が好き。
夜は私に優しいの。
真夜中は私を静かに待ってくれるの。
太陽が街を照らすまでの数時間、私は真夜中に身を浸すの。
刹那。
ひどく短いこの間に、私は何をするだろう。
まばたきをする?呼吸をする?
永劫。
きわめて長いこの間に、私は何をするだろう。
何かの成果を残す?それともぼんやりと生きる?
刹那が積み木なのだとしたら、永劫は積み木の塔みたいだ。長く生きる私の全てに刹那の積み木が散らばっている。
今このときだって、刹那の積み重ね。
私が生きているって証拠の積み重ねで、私はここにいる。
この世界は、何もかもが透明だ。
はるか昔は色なんてものがあって、僕たちが見ている景色にだって豊かな色があったらしいけれど。
ある時急に色を失い始めて、ついには何色でもなくなった。人々はそれを、無色現象と呼んだ。
何もかもが透明なことで起こることといえば、ありとあらゆる場所に身体をぶつけることだ。
無色なら白っぽいのでは?見えるんじゃないの?
そう思うだろう。だが違うんだ。白も色の1つだから当然無くなってしまうんだ。
全部が透けているといったらいいのか、とにかくどこに何があるのかが分からない。
水で出来た世界の中を歩いているみたいなんだ。
そんな世界でも、色という概念は分かる人が多い。
なぜなら人間だけには色が残っているから。
僕は僕や周りの人に色が残されていなかったら、きっと黒がどんな色か、ピンクがどんな色か分からなかったと思う。
そして、この世界に色という概念が残っているのは、色が失われる前の世界のことを知っている人が多いこともあると思う。
おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんが僕や妹に色というものを伝えて教えてくれた。
でもそのうち、色というものを自分の目で見たことがある人はいなくなってしまうんだと思う。
色は口伝えだけの幻みたいな存在になって、そのうち伝える必要もなくなって、いつかそっと消えてしまうのかもしれない。
そしてそうなった時、僕たちは本当の意味での無色の世界を生きていくことになるのだと思う。