とても好きがすぎるから、あなたの心臓を取り出して生きていることを実感したいし、あなたの脳をぶちまけて、あなたの考えてることを辿りながらひとつひとつかき集めて大事に仕舞っておきたい。
呼吸ひとつでさえも逃すのが惜しい。
愛なんて安い言葉では収まらない。
果てしない尊敬の念と、愛しさと、狂気と、悲しみと、慈愛と、怒りその他もろもろが巡るだけ。
私の中に渦巻く”これ”は、一過性などという言葉で済ませられるようなそんな単純なものではない。
淡くきらめく時期などとうに過ぎ、欲にまみれたひどく醜い、それでいて人間然としたものへと変わったのだ。
飲み込めないほどの魅力に酔いたい。
消化不良で吐いてしまうほど飲ませてほしい。
いい子なんかではいられない。
己を狂わすほどのこの感情。
そうか、これを欲望と言うのか。
遠くにいきたい。
なんとなしに呟いたその言葉は、誰にも拾われることはなかった。
最近遠くに行きたいとよく思う。目的地とかは無い。ただここではないどこかへ行きたい。
毎朝乗る電車で、学校の最寄りなんて無視して、そのまま行けるだけ遠くに行ってしまいたいと思う。
私は何から逃れたいのかな。
束縛気味の家庭からかな。
終わりのない受験からかな。
もしかしたら、逃げたいんじゃなくて誰かに会いたいのかな。
だとしたら、私は誰に会いたいんだろう。
もし会えるなら、好きな人に会いたいな。
好きな人は違う国に産まれてそこで生きている。
私のことなんて絶対に知るわけがない。
でもそれでも、君が生きる国に行って君を感じてみたいなと思う時があるよ。
私が学校に行く時、君は何をしているのかな。
この国と君の国の空気はどう違うのかな。
私の街では今日は晴れだよ、君の国はどうかな。
私は今受験頑張ってるよ、君は何してるかな。
私はほんのちょっと辛いよ、君は辛くないかな。
元気かな、幸せかな。
遠い空の下で生きる君のことを想像して、目を閉じたまま電車に揺られる。
このまま目が覚めたら君の国に着いていたらいいのに。
遠くにいきたい。
ここではないどこかへ。
遠くに生きたい。
できれば、君のいる街で生きたい。
現実逃避。
まるで私の心を読んだようなテーマだわ。
そう、逃げたい。私は今逃げたいの。
確証のない未来から、実るかも分からない努力から。
頑張ったらいいことがある。
努力は必ず報われる。
そんな嘘を言わないでよ。
頑張ったってどうしようもないこと、
この世の中には確実にあるの。
嫌なことから逃げてはいけない?
逃げ癖をつけてはいけない?
どうしてダメなの?
逃げは自分の心を守るための必要な手段よ。
逃げられないなら、私は私の心を壊そうとしてくるものにどうやって対応したらいいの。
逃避を許さないなら代替案を頂戴。
案がないなら黙っていて。
私が逃げるのを見逃して。
現実逃避を許して。
君は今、どうしているんだろう。
しとしと。
昇降口から見上げた空はどんよりとしていて、大雨とも小雨ともいえない微妙な雨が降っていた。
先週から梅雨に入ったこの街では、この雨はすぐには止まないことは十分に分かっている。
濡れて帰るのはものすごく躊躇われたが、今朝の母親の声掛けを聞かず傘を忘れてきた自分にはそれ以外の道は残されていない。
ふと、自分が想いを寄せる女の子のことを思い出した。彼女はどうしているだろうか、まだ学校にいるのか、それとも帰ったのか、帰る時には濡れずに帰れただろうか。
俺は少し前に想いを寄せる女の子、同じ委員会の先輩に告白して振られた。想いを告げた瞬間の先輩の戸惑った瞳はいつまで経っても忘れることができない。
失敗した、そう悟った時にはもう慌てて忘れてほしい、これまで通り仲良くしてほしいと捲し立てていた。
俺の告白のせいで疎遠になったらと心配していたけれど、優しい先輩は俺の言う通りに変わらずに接してくれた。そう望んだのは自分のくせに、あまりにも変わらない先輩の態度に俺は密かに傷ついた。俺の告白は1ミリも彼女の気持ちを揺らせないのだと落ち込んだ。
傘がない絶望的な状況でも思い出すのは彼女のことだなんて、振られたくせに未練がましくていけないと思わず自嘲的な笑みがこぼれる。
背後に人の気配を感じて、あぁもしかしてお仲間かなと思っていると、
「…もしかして傘無いの?」
掛けられた声は想いを寄せる人のもので、俺は勢いよく後ろを振り返った。
「あ、えっと、そう、ですね…すみません…」
さっきまで考えていた人が目の前に現れるなんてと動揺が止まらず、訳の分からないことを口走ってしまう。
そんな情けない姿の俺を見て彼女は、
「どうしてすみませんなの笑
良かったら一緒に帰る?」
と可愛らしい笑みを浮かべた。
好きな人と一緒に帰るなんて降って湧いた奇跡に感謝せずにはいられず、俺は勢いよく頷いた。
傘がなくて憂鬱だった帰り道のはずなのに、隣には好きな人がいて、いわゆる相合傘をしている。
「傘入れてくれてありがとうございます。先輩濡れてないですか?」
うるさい心臓の音に焦りつつも、精一杯平静を装って彼女に声を掛ける。
大丈夫だよと返してくれる声に安心すると同時に、絶対に彼女を濡らしてなるものかと自分が濡れることは構わずできる限り彼女に傘を傾けた。
俺を見つめる彼女の顔はなんとも可愛らしくて、思わず抱き寄せたい衝動に駆られる。
仲の良い後輩でも十分幸せだけれど、もし叶うのならいつかは、彼女の彼氏として傘を傾けたいと思った。
そういう、物憂げな空の帰り道だった。
しとしと。
耳を澄まさないと聴こえない程のそれが意識の中に入り込んでくる。
ページをめくる手を止め窓の外を見れば、雨が静かに降っていた。
手元の本をもうちょっと読み進めたかったけれど、雨がこれ以上強くなる前に帰った方が良いと判断した私は、開かれたページにスピンを挟み荷物をまとめて教室を出た。
先週梅雨に入ったばかりのこの街は、雨特有の匂いと湿気を漂わせている。
お気に入りの傘が長く使えることは嬉しいけれど、髪は跳ねるし靴は濡れるし正直少しだけ憂鬱な気分になる。
止む気配のない空を伺いながら下駄箱へと向かうと、見慣れた人影があった。
「…もしかして傘無いの?」
後ろからそっと話しかければ、目の前の人物は勢いよくこちらを振り返る。
「あ、えっと、そう、ですね…すみません…」
大きい背に似合わないくらいのしょぼんとした姿を見て、なんだか笑いが込み上げてきた。
「どうしてすみませんなの笑
良かったら一緒に帰る?」
そう声をかけると、彼はバッと顔を上げたあとすごく嬉しそうに首を縦に振った。
私と彼の関係性は、同じ委員会の先輩後輩。
そして最近は告白された人と告白した人、振った人と振られた人も追加された。
私は明るく気遣いができる彼のことを後輩としてとても気に入っていたけれど、そこに恋愛感情は無くて、告白された時はおおいに戸惑ってしまった。
そんな私の様子を見た彼は、自分が言いたかっただけだから忘れてほしい、これまで通り仲の良い先輩後輩でいたいと言ってくれた。
それに甘えて私は彼と一緒にいてしまうのだけれど、何となくそれが良くないことも分かっていたし、自分の気持ちが揺らいできていることも分かっていた。
でも一度振っているのに都合が良すぎやしないかと、私はこの気持ちを彼に伝えることを躊躇っている。
「傘入れてくれてありがとうございます。先輩濡れてないですか?」
少し高い目線からこちらを見て声を掛けてくれる彼の顔をまじまじと見た。
私の小さい傘に収まって、私が濡れないように一生懸命こちらに傾けてくれている彼の肩が濡れていることを知っている。
そんな優しさがあることも、綺麗な顔をしていることも、可愛いように見えて意外と男らしいところも全部全部知っている。
私がこの想いを我慢できずに彼に伝えてしまう日はそう遠くないのかもしれないと思った。
そういう、物憂げな空の帰り道だった。