「本当にいいんでしょうかねぇ」
バスの座席に腰を掛けた老婦人は、ゆっくりと口を開く。
「私だけバスに乗ってしまって。他にもこれに乗りたかった人がいたかもしれないのに」
わたしは彼女の顔を見つめながら首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ。それにバスはまた次のがすぐに来ますし」
そうですか、それなら良かったと安心したような表情になった婦人に、わたしは穏やかに語り掛ける。
「どうでしたか、今度の旅は」
「ええ、とても良かったですよ。私には勿体ないくらいの想い出です」
「けれど、ずいぶんとご苦労もなさったのでは?」
「まあ、確かに楽しいばかりではありませんでしたけれど・・・・・・、それも含めて良い旅でした」
「それはそれは。そう言っていただけると、わたしもこのバスに貴方と一緒に乗ったかいがあります。・・・・・・あ、ご婦人。そろそろ到着するみたいですよ」
わたしが気付いたのと同時にバスが停止した。車体のドアが開き、婦人が優雅な所作で立ち上がる。
「では、これで。ここまで送っていただき、ありがとうございました」
婦人がバスを降りる前に、わたしのほうを振り向き丁寧に挨拶をする。
「いえいえ、わたしのほうこそ、ありがとうございました。どうか、良い、死後を。そして、来世を」
わたしが手を上げると、婦人が降り、バスの扉が閉じた。
わたしはわたしと運転手だけになった車内で静かに座席に座りながら、次の乗客を待つことにした。
【終点】
止まらないイライラも。
胸の奥に蟠る不安も。
意味もなく溢れてくる涙も。
上手くいかなくたっていいんだよと。
自分自身にそう言ってあげられたなら。
少しは楽になってくれるのかな。
まだ上手く、自分にそう言ってはあげられないけれど。
【上手くいかなくたっていい】
蝶よ花よと育てた娘は。
本当に花のように愛らしく、美しく育ってくれた。
いつかは蝶のように、自ら選んだ場所へと舞って行ってしまうのだろうけれども。
まだもう少しだけここに留まって。
春のような心地に浸らせてくれないかなと、そんなことを望んでしまう。
【蝶よ花よ】
「最初から決まっていました」
紳士然とした若い男は優雅に微笑むと、傍らに抱えていた大きなバラの花束を片手に持ち直す。
「私の伴侶となるべく人は貴方です」
ゆっくりとした足取りで一人の女性の前に立った若者は、戸惑う彼女の前に堂々と跪く。
「どうか私の妻になっていただけませんか?」
バラの花束を差し出した若い紳士に、相手の女性はおずおずと視線を向け、躊躇いがちに口を開いた。
「あの・・・・・・、私と貴方は今日初めてお会いし、会話をしたばかりです。お付き合いをするくらいならともかく、貴方みたいなお方が私のような者に結婚の約束をするのはいささか早計なのでは・・・・・・?」
若者は俯きかけていた顔をあげ、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「貴方を一目見て、私の心は決まりました。貴方から見れば私の判断はまるで一瞬の出来事のように感じられるでしょうが、ここに至るまで私の頭脳は目まぐるしいほど途方もない演算を繰り返し、そしてようやく辿り着いた結果なのであります」
こうして人類史上稀に見るほどの天才と謳われた資産家は、彼にとっては永遠とも思えるくらいの長い数分を経て、後に語られる一世一代のプロポーズを果たしたのである。
【最初から決まってた】
遙かなる大地を明るく照らす太陽にも、時には休息が必要だ。
厚い雲の影に隠れてひとやすみしたり。
地上を濡らす雨の日と交代しては、ひそかな休日を送ったり。
と、まあ、色々とね。
だから、ほら。
太陽だって、時には休むのだから。
毎日毎日頑張らなくたって、何とかなるものなのだよ。
だから、さ。
君も思いっきり、休んだっていいんだよ。
【太陽】