作品No.164【2024/09/11 テーマ:カレンダー】
九月八日。忘れないと思うけど、忘れないように、私は祖母の家のカレンダーに書いた。
【おばあの命日】——と。
既に特別な法要は終わらせている、曾祖母の命日だ。二十年くらい経つだろうに、その日付は、忘れることなく私の中に刻まれている。
例えカレンダーに書いて残さなくても、忘れずに当日かその前後で、線香をあげにいくだろうに、律儀にそう書き記した。
そのついでに、カレンダーを一枚めくって、翌月の姉と自分の誕生日をちゃっかり書き残したのは、また別の話だ。
作品No.163【2024/09/10 テーマ:喪失感】
母方の曾祖母が亡くなったとき。
母方の祖父が亡くなったとき。
父方の祖父が亡くなったとき。
父方の祖母が亡くなったとき。
そして、昨年の十一月と今年の五月、約半年の間に相次いで、父方の伯父が亡くなったとき。
この約三十年間。近しい親戚との別れを、いくつも経験してきた。
不思議なことに、〝近しい親戚との別れ〟と一口で形容しても、私の中でその喪失感には差があった。
特に、私達姉妹の面倒を幼い頃から見てくれた母方の曾祖母と、年に数回顔を合わせる程度の父方の親戚とでは、私の中で明らかな喪失感の差があった。父方の親戚の命日は憶えていないくせに、母方の曾祖母と祖父の命日はしっかり憶えているところも、その差が読み取れるだろう(もっとも、母方の祖父の命日を憶えているのは、自身の誕生日の二日前という、なんとも憶えやすい日であることも理由の一つなのだが)。先日の母方の曾祖母の命日に、花束を持って線香をあげに行ったのだって、母の実家の方が自宅から近いから、という理由だけではないはずである。なんなら、ここ数年、私は曾祖母の命日に線香を欠かさずあげにいっているくらいだ。父方の親戚に、そこまでしようとは思えない。
こんな自分が薄情だ——とも思う。でも、それも致し方ないとも思う。
かかわりがあればあるだけ、思い出があればあるだけ、その人との別れはいつまでも残り続けるのだから。
作品No.162【2024/09/09 テーマ:世界に一つだけ】
自分という存在が
世界に一つだけ
だとしても
自分を大切にしたいと
思えないのはなんでだろうな
自分のこと
甘々に甘やかしてるくせに
作品No.161【2024/09/08 テーマ:胸の鼓動】
胸に手を当ててみる
こうして動いているということは
心臓も動いているのだろうが
よくわからない
唐突に止まってしまうのが
望ましいけれど
今止まるのはいやなんて
身勝手なことを考えている
作品No.160【2024/09/07 テーマ:踊るように】
誰かの手の上で踊る
そんなふうに
一生を終えたら
楽だろうなぁ