『夜が明けた。』
夜が明けた。
カーテンを少し開けて隣の公園をそっと見る。
まだ、ほんの少し花が咲いていたのに…。そう思うと気分が一気に暗くなる。
公園に大きなクレーン車がやって来たのは1週間前の朝。電線に掛かる桜の枝を切るだけの作業だと思っていた考えは見事に外れた。
仕事から帰宅して驚いた。道路側の桜が4本、根元から切り倒されていたのだ。
更に翌日も翌々日も作業は続き、公園の敷地内にある全ての桜の木が倒された。
老木だったので、急に折れたり倒れたりする被害を防ぐ目的だったのは分かる。
けれどまだ桜は咲いていた。せめて花が散ってからではダメだったのだろうか。
これが最後の桜だったのに…と思うと、なんともやるせない。
『ふとした瞬間』
7月。
彼を初めて見掛けたのは去年の夏のこと。
少しふくよかな身体を揺らしながら深夜0時の真っ暗な道を、ゆっくりランニング。
それから度々走る彼に遭遇する。いつもひたむきに走る姿に、すれ違う車の中から密かにエールを飛ばす。
12月。
雪が降り始めたと同時に彼はパタリと姿を見せなくなった。場所を他に変えたのか、もしくは走るのを止めてしまったのか。
時々ふとした瞬間に、彼は今頃どうしているだろう…と思ったり。
4月。
昨日、深夜にコンビニへ向かうと、車のずっと先の先に動く人影がひとり。目を凝らしてもはっきり見えないが、もしかしたら彼なのか?
確かめるべくゆっくりと車を進める。
すれ違いざまにチラリと目を向けると、そこには見違えるほど引き締まった身体で颯爽と走るあの彼がいた。
『こっちに恋』『愛にきて』
季節は春。
春は恋の季節だなんて、誰が言い始めたんだろう。
「私達に春は何時になったら訪れるんだろうね?」
「本当に」
まだ春遅い若き乙女がふたり、恋みくじを引きに
とある神社へやって来た。
「思ったんだけど、私達って恋愛に対してすっごく
奥手じゃない?」
「うん」
「だから時には自分から行くのも必要なんじゃないか
なって」
「確かにねぇ」
後は恋みくじ頼み。どんなアドバイスが書かれているか、ドキドキしながら小さく折りたたまれた紙を広げた。
『良縁よ、こっちに恋々』
『運命の人よ、愛にきて』
ふたりで思わず顔を見合わす。意気込みとは裏腹に
受け身な文字が並ぶ。
そうか。
奥手は奥手なりの恋の速度でいいのだな。だから今年も焦ること無く、素敵な出会いを待っていよう。
『大好き』
友人に誘われた飲み会で偶然出会った彼は、同じ大学で同い年。一目惚れ同然から始まった恋は、少し私を積極的にさせた。何とか彼との距離を縮めたい。料理は不得意だけれど、まずは彼の胃袋を掴むのはどうだろう。
そこで考えついたのが、彼の大好きなチャーハンを極めることだった。
「だから、それを俺に教えろと?」
バイト先の店長にお願いします!と頭を下げる。
「高校生の頃から働いて貰ってる咲ちゃんの頼みは断われないなぁ」
店長はそう言って笑ったが修行は泣くほど厳しかった。
「ダメだ!もう一回!」
出来無いと容赦なく罵声が飛ぶ。中々上達しない私だが店長は辛抱強く教えてくれた。家で作っては味見をお願いし、バイト終わりに店でまた作る。
よこしまな考えから始めたチャーハン修行。だが今はもう違う。目指すは昨日の己を少しでも越えること。
そして1日も早く「うまい!」と店長に言って貰える
絶品チャーハンが作れるようになることだ。
『花の香りと共に』
図書館で見掛けた陶芸教室の張り紙。地元で有名な陶芸家、神田先生の教室だ。今度初心者向けの体験教室が行われるとの告知に、私は早速申し込みの電話を掛けた。
「お電話ありがとうございます」
お試し体験では何を作っても良いらしい。
何にしよう…。そうだ、小さな花瓶はどうだろう。そこに春の花を飾って、花の香りと共に1日を過ごせたら素敵じゃない?
当日、初心者ばかり10名が集まった。
土の扱いに四苦八苦の皆の間を先生が見て回る。
その様子を見て、あれっ?と思った。先生は70手前だと聞いていたがとてもそうは思えない。暫く考えていると隣りの女性ふたりが小声て話し掛けてきた。
「ねぇ、神田先生、何だか若過ぎない?」
3人で作業しつつチラチラと先生を見る。
目の前の人は本当に神田先生なんだろうか。
もしそうでなければ一体誰だろう…。
聞くにも聞けず時間が過ぎる。ただ花瓶は着々と出来上がっていった。