『正直』
夫の実家でお義母さんの手料理を頂く。
「さあ、どうぞ。ゆみさんの大好きなトマトよ」
それぞれにサラダが配られた。皆にはキャベツや人参、コーン等色味もカラフルな野菜だが、どうしたことか私の皿にはトマトだけが盛り付けられている。
何故私にはトマトだけ?横にいる夫を見ると、申し訳なさそうな顔をしている。そして小声で「前に君に話した母さんの思い込みが発動している」
そう言えば結婚前に手料理をご馳走になった時、お義母さんに付け合わせの野菜にキュウリがいいかトマトがいいか聞かれたのを思い出した。その時は何となくトマトと答えたのだが、特に大好きと言う訳でも無い。あの時からお義母さんの中では私=トマト好きになったのか。でも、こんな事で良好な関係が保てるのなら、正直に本当の事など言わなくてもいいのかも知れない。
『無垢』
夕方、山の仕事をしている親戚のおじさんが、親から離れて山の中をウロウロしていた子うさぎを抱えて家にやって来た。私は小さくて可愛いその子にうさこと名付け、お世話することに。それからうさこはもりもり食べてどんどん大きくなっていった。
ある日学校から帰ると、柿の木に毛の生えた棒のような物がぶら下がっていた。あれは何かと尋ねても祖父も祖母も何も答えない。何か分からぬまま夕飯になり、皆で肉と野菜の煮込み鍋を食べた。
どうしたことか、うさこが居なくなっていた。もしかしたら私が柵の鍵を閉め忘れたのかもしれない‥。泣きじゃくる私を祖母が慰める傍らで祖父が電話をしている。「また居たら頼むわ」
泣く私を可哀想に思って、親戚のおじさんに電話してくれるおじいちゃんはなんて優しいんだろう。
『終わりなき旅』
ここから岡山まで片道約1000km、6月に引退する特急列車に乗る為に明日電車で日帰りの旅に出掛ける。家族は折角遠くへ行くのだから泊まりでゆっくりして来たら‥と言うのだが仕事の兼ね合いと天気の具合をみるとこれがベストだ。
幼い頃は母に抱っこされながら通る電車に手を振り、小中学時代はお小遣いを貯めては乗りに行き、今は自前の一眼レフを抱えて電車を求めて何処へでも行く。
これから先も鉄道が無くなる事はない。そして繰り返される新型車両の登場と旧型車両の引退。その凛々しい姿を写真に収める為、私の旅にも終わりは無い。
『半袖』
地方から東京の大学に進学して数ヶ月、私は勉強に励みながら一人暮らしを満喫したり、休日には友人達とあちこち遊びに行く事を楽しんでいた。
今日は友人5人で有名なパンケーキ屋さんへ行く日。ビルに着くと最上階のお店に向かってエレベーターに乗り込んだ。
「今日こんなに暑くなるなんて思わなかった」
の友人の言葉に、皆で半袖でも良かったね‥と口にした時、私は隣に立つ初老の女性に突然話し掛けられた。「あなたは長野の方?」
どうして分かるのだろう。驚いて見つめると
「突然ごめんなさいね、亡くなった主人と同じ話し方だったから」
半袖の独特の言い方が懐かしかったと言い残し降りて行った女性。もしかしたらあの時、本当はもっと色んな話しをしたかったのではないだろうか‥。
そう思うと、パンケーキにはしゃぐ友達の声がどこか遠くに聞こえた。
『透明』
薬局で見付けた大ボトルの消臭剤を、早速トイレの棚に置いてみる。中に大きな透明ビーズがいっぱい入っているタイプで、湿ったビーズが光に当たりキラキラ光る感じが凄くいい。上のシールを剥がすと
雫型に穴の空いた蓋が現れた。
でもこの穴って大きくない?倒れたらビーズが出そうだけど‥。そう思ったら試さずにはいられない。
蓋に片手を当てボトルをそっと傾けると、ビーズがバラバラと床にこぼれ落ちた。
ああー!やっぱり!私は慌ててビーズを拾い集めた。
夕方、帰ってきた娘がトイレで叫んでいる。「ビーズがこぼれて大変だった」流石親子、やはり娘も同じ事をしたようだ。実はお母さんも‥とバラして2人で笑っていると、その間に帰ってきた夫もトイレで叫んでいるのが聞こえてきた。