透明
透明と言うとき、大体の場合僕らはそれが存在しないように見えることを意味する
しかしそれは可視光が影響されないという意味でしかない
もしかしたら僕らには見えない電磁波が吸収されているかもしれない
「透明」と言って誰にも「あなたの感想ですよね?」と言われないようにするのは難しい
生きる意味
これを考えると最終的に「なぜ世界が存在するか?」という問いに到達するのではないだろうか?
生物は子孫を残すために生きるという人がいる。それは完全な答えではない。
子孫を残したら一体何になる?
生物がいなくたって恒星はその最期まで核融合を起こし、惑星や衛星は恒星に温められながらその死を待つだけだ。
ではなぜそもそも恒星や衛星、そのもとになる物質、はたまたそれらが存在する世界が存在するのだろう?
この問いはいろいろな方法で解決されようとしているように思う。それは、もう少し浅いところでとどまっていたかもしれないが、かつては哲学だった。
いまこの問いを解決するための手段は科学であり、僕は、人間やその他の生物が存在する理由は、それを究極まで突き詰め、「なぜ世界が存在するか?」という問いの解決を、それぞれの方法で、微力ながら助けたり、ごくごく一部のものは、それに直接取り組むために生きるのではないかと思う。
快晴
それはきれいな晴天を連想させる
だが僕は快晴よりも少し雲がある晴天の方がきれいだと感じる
実際に「きれいな晴天」と検索すると雲が少しある空の写真ばかりヒットした
多分多くの人が少し雲がある方がきれいだと感じるのだろう
なぜだろう?
快晴は大気の乾燥を表すからだろうか?
放射冷却が発生するからだろうか?
逃げ場のない強い日差しを連想させるからだろうか?
快晴は実は「いい天気」ではないのかもしれない
昔のヒトにとって夜は危険だ
僕らが闇を恐れるのにその名残がある
沈む夕日はその闇の訪れを予感させるものだ
だが僕らはそれを恐れるどころか美しいと感じる
夕焼けの発生条件は西の空に太陽を遮るものがないことだ
それは偏西風が吹く中緯度帯では翌日晴れることを意味する
それを知ったとき僕は一度納得した
だが貿易風や極偏東風が吹く地域の人達は夕日を見てどう感じるのだろうか
そのような地域では夕日は翌日の晴天を意味しない
では彼らは沈む夕日を恐れるのだろうか?
僕は彼らも同じように沈む夕日を美しいと感じるのだと思う
ヒトが沈む夕日を見て美しいと思う理由はもしかすると生存に関係ないところにあるのかもしれない
この星空を我々に見せてくれる宇宙は広がっていることが観測されている
その速さはどの方向を見ても同じみたいだ
...ということは地球が宇宙の中心なのだろうか?
多分そんなことはない
これに思いを馳せる中でふと思った
地球を平面だと思った人たちは自分たちの国が世界の中心だと思っていたのだろうか?
2次元の平面の上に自らが存在すると考えていた彼らにはそうとしか見えなかったであろう
彼らが置かれていた状況は僕らが置かれている状況とまさに同じだ
彼らは間違っていた
地球が2次元平面だと思っていたためだ
僕を含む一般人は世界は三次元だと認識しているし星空も三次元だと思っている
でももしかしたら...
宇宙はそもそも3次元ではないのかもしれない