昔々、まだ夜道を照らす灯もなく、人々の住まいは一日の半ば近くも真黒 な闇の中にとざされ、その闇の奥から時折狼の遠吠えが、野原を渡る風の音に まじって気味悪く聞こえて来ていた頃、恐らく星は、人々にとって今よりも遙 かに身近で重要な存在だった。
一日の仕事を終えて粗末な褥に身を横たえる前のひとときや、東の空の白むのももどかしく眠りから目ざめたとき、彼らがき まって振り仰ぐ星空には幾つもの親しみ易い図形が待ちうけていた。
その或るものは美しい乙女が天に舞う姿を思わせたし、また或るものは大きな獅子となって頭上から彼らを威圧するかのように見えた。
そのような図形や相互の配置のおおよそを、恐らく多くの人々はそらんじていたであろう。
実際、満足なあかりも、そしてまた、その下で読むべき何物をも持たなかった人々にとって、 星空は彼らの涯しない夢をはぐくむただ一つの、そしてそれ故にこそ何回となく読み古された物語のようなものだった。
『物理学序論としての力学』藤原邦夫
10/5/2024, 1:22:03 PM