月が潤んでいる
虫の声がする
夜風は冷たい
夏は終わった
本当のところ俺たちは死にたいわけじゃあないんだ
苦しくてたまらないから、楽になりたいだけなんだよ
分かるかな
生きてる限りこの苦しさに終わりはないから
早く楽になりたいだけなんだ
生きてりゃつらいこともあるが楽しいこともあるって?
そういうことじゃなくて……生きてることがさ
生きてることそのものが苦しくて……
自分の存在ってものがさ……
まあ分からねえだろうな
分かるやつしか分からねえ話だよ
分かるやつが偉いってわけでもねえしさ
分からねえに越したことはないよ
まあとにかくつらいんだ
それでもまだ生きてるのはさ
生きてることがこんなに苦しいなら
死ぬこともまた違った苦しみでしかないんじゃねえか
そう思ってるからなんだ
死ねば楽になるって保証はないだろ
地獄とかあの世とかがあったとしてもなかったとしても
俺が俺でいる限り、この苦しさにつきまとわれる
どこへ行こうと何になろうと
俺ってものが俺のまんまである限りこの苦しさは消えないだろう
だから俺はまだ生きていて、俺ってものをぶち壊してやろうと思ってるんだよ
俺が俺でなくなったら
俺が俺から解放されたら
どんなにか自由で
身軽で
気持ちが良くて
せいせいするだろう
体はもちろん、ことばも、考えも、こころも、
今の俺でなくなって
もっといいものになれたとしたら
どんなにか嬉しいだろうって
そう考えて
まだ生きてるんだ
もし生まれ変わって鳥になっても
俺が俺のままなら同じことだから
この体のままで俺でなくなる
そういう工夫をしてるんだ
ああ
だから自殺志願ってわけじゃないんだ
あんたから見たら同じかもな
けど俺に取っちゃ全然違うんだ
まあ分からねえだろうけど
俺たちは死にたいわけじゃないんだ
ただ楽になりたいんだ
暑い暑い七月の昼過ぎ
熱した鉄板のようなアスファルトの上を
鳩が一羽
うろうろ歩いている
よう 可哀想な鳥よ
そんなところに
お前の食べられそうなものはあるのか
いくら飢えたとて
その小さな足に火傷を作るなよ
お前は俺と違って
昼のあいだでも
日陰で休むことができるのだから
俺かい
お前と同じようなものさ
この暑い時間に
太陽に灼かれながら
滝のような汗を流して
茹でられるような思いをして
人の昼飯を運んでは
わずかな駄賃をもらっているのさ
それもこれもみんな
飢えないためだよ
だが俺はお前と違って
靴というものを履いているし
頭に帽子もかぶっているけど
お前にはそういうものもない
だから
お前がその小さな足に火傷をこしらえて
夜の涼しい頃になっても
その痛みに眠れなくなるのではないか
俺はただ
それだけが心配だよ
鳩はなにも答えなかった
月に願いを?
なんで?
ありゃ宇宙に浮いてるでっかい岩だぞ
地球の周りをぐるぐる回ってるでかい岩
太陽は真空で核融合起こしてる水素の塊
星はみんな燃えてるガスとか飛び散る霧とか
まあそんなところだぞ
なんで頼み事なんかする?
よしんば
天体に
俺たちの運命をどうこうするちからがあったとして
聞いてくれると思うか?
この濡れた土くれの表面で
ウジャウジャ蠢いてる小さい生き物たちが
「これはいやだ、こうしてくれ」
「それは気に入らない、ああしてくれ」
口々に何か言ってきたその声を聞き取れたとしてだよ
何かしてやろうって気になるものだろうか
それをまあ五百万年ばかり聞かされてだよ
うんざりしそうなもんだがなあ
まあ
月に訊いてみなきゃ分からないが
たとえ
俺がどんなにていねいに
腰を低くして話しかけても
月は返事をしてくれないだろう
なにしろ俺も
地球の表面にウジャウジャへばりついている
小さな人間の一人に過ぎないから
月は相変わらず
俺のことなど気にもかけずに
澄みきった宇宙の闇に
ぽっかりと青白く浮かんでいるよ
きれいなもんだ
不条理だの不合理だの
まるで
条理や合理というものが
この世のどこかにいるのだが
今はちょっと留守にしているので
こんな困ったことになっている
そんなふうな言い様だ
はっきり言っておくが
そんなものは
この宇宙の
どこにもありはしないのだ
誰の頭のなかにさえ
確固と存在はしていない
人の頭にある判別基準は
気に入るか気に入らないか
それだけのはなし
理不尽でない人間など
この世にいない
一人もいない
それの証拠に
不条理も不合理も
他人からかけられるものであって
自分が他人に押し付けているとは
露ほども考えやしない
不条理なのは常に他人で
自分は一本筋が通っている
ひとに不便を強いたとしても
やむを得ない理由があるのだ
このわたしにかぎっては
俺ならあんなことは絶対しない
俺は道理をわきまえてるぞ
誰も彼も
そう考えている
世界中どこでも
みんなが
一人残らず
そう思ってる
まったく
不条理だらけ
理不尽だらけ
見渡してみれば
歪みきったこの世間で
必死になってもがいている
ちっぽけな人間たち
さてもさても
ばかばかしいやらおかしいやら