#37 優しくしないで
自己嫌悪からか
自暴自棄からか
理性的であろうとするあまりか
とにもかくにも
優しくしないでと嘆く人は
その特定の人にでも
周囲の人にでも
見知らぬ人にでも
とにもかくにも
相手の優しさに敏感な
優しい人だ
#32 生きる意味
ネガティブな意味ではなく、わたしたちは、これから生きていくことを望んだ上で生まれ落ちたわけではない。
つまり、だから、どんな内容にしろ、生きる意味は必ず後付けになってしまうんだなと、今日のテーマについて考えたときに気がついた。
わたしの生きる意味はなんだろうか。
生きることへの相応しい価値とはなんだろうか。
こんなにも人口減少が叫ばれていても、それでもこの先も続いていく、当人の意志を無視した勝手な生命の誕生(これもネガティブな意味合いは一切ない。命とは、命あるものの意志で与えられる、一番初めの素晴らしいプレゼントだと思う。本来は)。
生きている先人の者として、やはり、この場所と社会を利己的に利用してはならないと、苦々しく思い知らされる。
わたし1人に力はない。
ただ、いくら力が弱くても、できる限りのこと“以上の”ことをしたいと思った。
できる限りのことというのはたぶん、そこまで頑張らなくてもできる程度のことなのだ。
せめて気持ちだけでも、全力で、必死にやらなければと思った。
必死にやること、それが何かと言うと。
幸せを求めようとすることだ。
わたしは以前自分のことを「幸せを望まぬ、怠惰な人間である」と言った。
これはやめなければならない。
とんでもないことだった。
わたしは決して、幸せを望むことに怠惰であってはいけないのだ。
生きる以上、幸せは貪欲に求めなければならない。
いや、というよりも、本来人間は幸せを求めるものなのだ。
それを無視してはならない。
幸せなんて望んでなどいないと、嘘を吐き、スカしてはいけないのだ。
未来の、わたしと似たような人のために、わたしは幸せを求めなければならない。
生きることは幸せであると、人間として生まれることは素晴らしいことであると、社会を生きることは、生まれが選べないことは、女であることは、普通ではないことは、働くことは、経済を考えることは、本を読むことは、勉強をすることは、自然を好むことは――何事においても意味を持たせ、幸せで素晴らしいことであるという前例を作らなければならないのだ。
意味というより、使命に近いかもしれない。
少しだけ心を入れ替えて、生きていこうと思った。
もちろんそれは、のびのびと息を吸い、吐き出すことでしかできないことだ。
深く呼吸するためにも、わたしの生きる”理由”は変わらない。(#9)
だけど、わたしの生きる意味は、幸せになる(である)ためだ。
死ぬその時に、生きていることは幸せだったと思うためだ。
そしてそれを次の世代に――その目で見てもらえていなくても――見せるためだ。
熱っぽく語ったけど、無理して頑張りすぎるという意味ではない。
ただ、これまでよりも、努力することをとても前向きに捉えられたので、その努力をしようと思った。
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#26 雫(2023/4/26 22:00:00)
タクシーのリアドアの形をした額縁に
知らない東京の夜景が描かれている
そこには無数の雨の雫が散りばめられていて
仲間を喰べてある程度大きくなると
恐怖に打ち震えるような動作をしてから
滑るぼくの軌道に流れ落ちて散っていった
あの男に出会った、あの夜を思い出す
不思議な色に染められた一房の髪は
波打ち、ホテルの下卑た明かりを受けて
うんざりと紫色に縁取られていた
もう連絡先はおろか、顔も名前も声も、何も覚えていない
ただ残っているのは、宅録の荒い2分足らずの音源と
一度だけぼくの外側に触れたことのある
熱い一雫の感覚だけだ
#31 善悪
世界の何がどれだけ機械仕掛けになろうとも
善悪だけは、人間が問い続けなければならない
#30 流れ星に願いを
わたしは流れ星を見たことがほとんどない。
だからか、流れ星を見たらお願い事をしたくなるんだろうなって、どこか心地よい気持ちで想像することができる。
流れ星に乗せた願い事は、別に叶わなくたっていいし、叶うとも思ってない。
ただ、そういう自然の美しいものにお願い事をしたくなる気持ちが、すごく愛しいと思ってしまう。
御伽話に想いを馳せるような、非現実的な世界にうっとりしてしまうような、少し寂しげな癒しがある。
流れ星に願いをする、決して悲しくはない日が、いつか訪れますように。
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#25 何もいらない(18:09:00)
何もいらないってことはない。
だってその前に、○○さえあればって付けるでしょ?
わたしは何かな。
「穏やかな日々さえあれば、何もいらない」かな。
これじゃ望むものが大きすぎて、格好がつかないね。
かつて自分の×××を必要とせず、恋も必要以上なお金も望まないわたしは無欲な人間だと思っていたけど、勘違いだったんだな。
無欲であることは、人間にはやっぱり、難しいことだね。
#29 ルール(17:14:00)
ルールとは、課された集団における“普通”の人が、普通に何の理不尽や不条理に晒されず、広い秩序の中に収まった自由を最低限保護する為にあるだけだ。
つまり、“普通”から少しでもはみ出した人のことは取り零すようにできている。
これを紛糾したいのではない。
何度も直面するそう気付かされる現実を、わたしは忘れず、常に心に留めていたいのだ。
できうる限りの選択をし、時に普通であろうと背伸びをして最前策を取り、愛情を持って接していても、そのルールが適用されない人は多く在る。
“普通”の人はそういう人に対して、一切の妥協を許さない。
一度の過ちも、些細な休息も許さない。
その両者の間には壁はおろか溝すらなく……というよりも、人間には本来“両者”などと表現できるような収まるべき場所などなく――カテゴライズとは分かりやすくするために必要な行為でありそれ以上でも以下でもない――少しのことで簡単にどこへでも行けてしまうし、何者にもなり得るというのに。
ルールは必要だ。
心からそう思うし、ルールを作ることは人を想うことだとも考える。
しかし、ルールはどんな物事と一緒で、完璧で完全なものはないことも知っているつもりだ。
だから、いくらルールを必要とするわたしでも、そして紛糾するつもりはないとしても……。ルールを成熟させる気もなく穴だらけのルールを論理的なアイテムとして振り翳し、ルールに頼ってでしか判断を下せない人や組織や仕組みや思想を、わたしは正直、ここまで多くは必要としていない。
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#24 もしも未来を見れるなら
「着きましたよ」
運転手の声でわたしは目を覚ました。
また17時頃にここへ迎えに来るということだったので、礼を言って、金を払った。
銀色のオープンカーから降り立つと、そこは未来のようであったが、せいぜい数十年先のことだからか、東京は然程変わり映えはしなかった。
あの2030年を越え、散々取り返しのつかないことになると言われていた此処も、仮初の穏やかな日常にどっぷりと浸かっていた。
砂糖で煮詰まった腐りかけのいちごのように、その場限りの寿命を消費していた。
わたしはすぐ目に入ったカフェで、無脂肪ミルクで作ったコクの少ないアイスカフェラテを買い、飲みながら、未来の青山を歩いた。
利益が何かも知らないままに損を避けて生きてきた人たちが、各々お洒落をして、其処彼処を行き交っている。
それは、ふとショーウィンドウに写し出された自分自身も、決して例外というわけではなかった。
ファンデーションを施した肌に、美しいワンピースの花柄が透けているのがいい証拠だった。
それでも、アイスカフェラテが胃から迫り上がってくることはなかった。
何も飲み込むことはなかったのだ。
「いかがでしたか?」
17時、銀色のオープンカーの中、白い手袋をした運転手が言う。
「何も変わっていなかった。カフェラテの味さえも。平和で、安心した」
後に続くべき“悲しいほどに”という言葉は、飲み込んだわけでは無い。
出なかったのだ、催さない吐き気のように。
もしも未来を見れたとしても、ロクなことはないだろうし、未来の自分にとって未来という現実は、どれほど腐っていてどうしようもなく、ひどい天災に見舞われていたとしても、まったくドラマチックではないのだ。
だけど、そうであるからこそ。
わたしは未来に繋がる今という時間を、目を逸らさずに消費しようと思っている。
損得なんてあやふやな秤を使って、選択はしない。
そのことだけ、自分自身に誓えたのはプラスなことだったように思う。