サヨナラは言わないで
「耳の位置をもう少し上にもってくると、バランスが良くなるよ」
自由帳の真っ白なページに女の子を描いていた。丸い顔、雑な線がわしゃわしゃした髪、大きな目、アンバランスで、園児のお絵描きに毛が生えたような絵を描いていた。はじめ君はそんな絵を決してバカにしなかった。上手に描くアドバイスをしてくれた。
はじめ君は絵画コンクールで表彰されるくらい、本当に絵を描くのが上手だった。ずば抜けて上手だった。野外活動や修学旅行のしおりの表紙、美術室の壁に貼られた上履きのスケッチも全てはじめ君の絵だ。
中学に進学してはじめ君の絵は益々上手くなった。はじめ君に描いてもらった絵を大事にしていた。絵が上手いからじゃない、私に絵を描く楽しさを教えてくれたから、友達として、一人の人として、学校で会えることが楽しみで、本当に嬉しかった。
一緒に過ごしたくて、美術部に入った。はじめ君の作品を見たかった。美術館で鑑賞した絵のことを話したかった。写生大会に作品を出したり、飼ってるうさぎのスケッチをして、上手になったねって言ってほしかった。
2年生の夏休み、はじめ君は家庭の事情で九州の学校に転校した。あまりに突然の転校で、引越し先のことも何も聞けなかった。サヨナラも言えなかった。
空き家になったはじめ君が住んでいた家の前に行くと、本当にもう会えないんだと寂しい気持ちでいっぱいになった。でも、はじめ君の作品をいつかどこかで目にするかもしれない。絵画とは限らない、デザインとか、写真とか。
そんな日が来るかもしれないから、サヨナラは言わないでおこう。
中国の伝統楽器、二胡。音色に惹かれ、二胡教室に通い、10年以上になる。
趣味にとどまらず、特技と言えるレベルにしたい。公然と言ったことはないが、内に秘めた欲はある。やるからには一流に。あなたと演奏したい、あなたの演奏を聴きたいと言われる演奏がしたいと…。
二胡に出会うまで、内気で、人前に出て何か披露するなんて考えられなかった。未熟な私の二胡演奏を温かい目で見守り、勇気づけてくれた人々のおかげで現在がある。これまでの努力は全く無駄ではない、着実に上達はしているのだ。ただ、そんな自分を褒めることができない。
二胡教室の生徒の中には私のことを上手な人と評してくれる人もいるらしい。友達や周囲からは好きなことができて羨ましいと言われる。
休日ほぼ一日中弾いている。上達するのは当然だ。やればやるほど辛く感じることがある。基本的な音すら納得いかない。できないことが悔しくて、イライラしてしまう。音程が安定しない、音がかすれる。
練習の度に自分の努力は認めてあげられず、悔しさが勝る。本当に好きでやっているのかさえも見失いかけている。それでも、上手になりたいから、弾くことをやめられない。
美しいもの、素晴らしいものを得るには、苦しみがある。
終わりなき道をひたすら歩くしかない。
歩けるうちは歩いてみよう、この道を。
"ソーシャルディスタンス"
一時に比べると口うるさく言われなくなった。人の温もりを求めて、寂しがりやな人間にとっては辛い時期であっただろう。
人は一人では生きていけないが、誰かに依存し過ぎれば相手も自分自身もいずれは苦しくなる。
傍に居たい、気に入られたい、好きで愛おしくてたまらない。自分以外の人にそんな情を抱くのは生きているから、人間に生まれたからこそ。本当に素晴らしいことだ。誰かをそんなふうに思い、付き合えたなら、あなたはみんなに自慢していい。自分以外の人をこんなにも大切に思って生きてこられたのだと。
だけど、自分を犠牲にして、気持ちや感情を抑えて、嫌な相手にも媚びを売り、うわべだけのお世辞を言うのも人間として生きるからこそ必要なこともある。ウイルスにより人と人との出会いや交流を阻害されることも。
いつの時代も人は誰かと生きるために、人間関係を円滑にするために努力し、模索する。