蟻が食べ物を探して草の間を歩いていると、土の上で小さく震えているさなぎを見つけた。
「どうしたんだい?」
蟻は立ち止まった。
さなぎは、じっとしたまま何も答えなかった。 ただ、尾の先だけがかすかに揺れた。
蟻は気の毒に思った。
自分は小さいながらも自由に歩き回れる。 木にも登れるし、食べ物を探すこともできる。 けれど、その さなぎは、殻の中で朽ちていくのを待つしかないように見えた。
「可哀そうに。」
そう呟いて、蟻は毎日さなぎのもとへ通った。
食べ物を運び、 水滴を集め、 雨の日には葉を引き寄せてやった。
さなぎは何も言わなかった。
ただ静かに、そこにいた。
やがて数日後。
殻が割れ、 中から一匹の蝶が現れた。
大きな羽は陽光を受けて鮮やかに輝き、 蟻は思わず見上げた。
「よかった……助かったんだね。」
蝶は不思議そうに羽を揺らした。
「助かった?」
「だって君は、動けなくて苦しんでいたんじゃ……」
蝶はしばらく蟻を見つめ、 それから静かに言った。
「私は、そう言ったことはないよ。」
蟻は黙った。
風が吹き、 蝶の影が蟻の上を横切る。
「私はただ、変わる途中にいただけ。」
蟻の触角が、小さく揺れた。
「でも君は、私を“可哀そうなもの”だと思った。 だから助けようとしたんだね。」
蝶はふわりと空へ浮かび上がる。
「ありがとう。」
そう言い残し、 蝶は春の光の中へ高く飛び去っていった。
もう蟻には、その姿を見つけることはできなかった。
あとには、小さな蟻だけが残った。
蟻はしばらく空を見上げていたが、 やがて静かに歩き出した。
優しさだけでは、 きっと他者の内側を完全には読めない。
蝶は最初から、 自分の力で羽化する存在だった。
蟻は、そのあとも草のあいだを歩き続けた。
以前と同じように食べ物を探し、仲間の列へ戻り、石を運び、雨を避け、土の匂いのなかで生きた。
けれど時折、ふと空を見上げる癖が残った。
春の高い場所を、光の粒のような蝶が横切るたび、胸の奥で何かが静かに疼いた。
ある曇った日。 蟻は、倒れた若い草の根元で、羽を濡らした小さな蜂を見つけた。
蜂は泥にはまり、うまく飛べずにいた。
蟻は立ち止まった。
「……大丈夫かい」
蜂は答えなかった。
ただ羽を震わせた。 泥が跳ねる。 少し浮きかけて、すぐ沈む。
また羽を震わせる。
失敗する。
それでも、やめない。
蟻は少しだけ近づいた。
「引っぱれば、出られるかな」
自分の細い脚を見る。 けれど、その泥に食い込んだ身体を動かせる気はしなかった。
「……土を掘る?」
けれど掘れば、崩れて余計に埋まるかもしれない。
蟻は迷った。
以前の自分なら、 “助けなきゃ”という気持ちだけで、 もう身体を動かしていた気がした。
けれど今は、 それが本当に相手のためなのか、 わからなかった。
風が吹いた。
倒れた草が揺れ、 その先の葉から雫が落ちる。
蜂はその振動に合わせるように、 身体をわずかに持ち上げた。
泥の縁へ、 ほんの少しだけ近づく。
蟻はじっと見た。
蜂は飛べないわけじゃない。
まだ、 飛ぼうとしている。
何度も。 何度も。
蟻は周囲を見回した。
濡れていない場所。 泥に沈まないもの。 蜂の身体を少し休められそうなもの。
そして、小さな葉を見つけた。
蟻はそれを噛んで引きずり、 蜂のすぐそばへ置いた。
「……これなら、少しは楽かもしれない」
蜂は答えなかった。
けれどしばらくして、 泥から前脚を伸ばし、 ゆっくりと葉へ身体を移した。
羽から、 水がぽたりと落ちる。
蟻は黙って見ていた。
持ち上げなかった。 飛ばせようともしなかった。 「頑張れ」とも言わなかった。
ただ、 蜂が自分で動こうとしている方向を、 邪魔しないように考えていた。
長い時間のあと、 蜂はふいに羽を広げた。
低く、 ぎこちなく、 けれど確かに、 自分の力で空へ浮かび上がる。
その姿を見ながら、 蟻は静かに触角を伏せた。
助けるとは何か。 まだ、よくわからなかった。
けれど少なくとも、 相手を「何もできない存在」と決めつけることではないのだと、 蟻は少しだけ知った。
泣いているものの中には、 何かが生まれ変わろうとしている者もいる。
立ち止まっているものの中には、 見えない場所で必死に形を変えている者もいる。
そして時には、 本当に壊れ、 助けを求めている者もいる。
蟻には、まだ難しかった。
同じ沈黙でも、 同じ涙でも、 意味はひとつじゃない。
けれど蟻は、 それでもまた、 誰かのそばへ行ってしまうのだろう。
優しさだけで、きっと
動かされてしまうから。
完全には理解できないまま。
傷つけるかもしれないまま。
それでも、 何もしない冷たさにも耐えきれないまま。
夕暮れが近づき、 草原が橙色へ染まっていく。
蟻は小さな身体で、 また土の上を歩いていく。
優しさとは、答えではなく――
たぶん、 わからない他者へ近づこうとする、 生き物の習性なのかもしれなかった。
題 優しさだけで、きっと
c=fλ
変わらないものの上で
変わる揺れ方が
世界の色になる
虹は掴めない
けれどそれは
存在しないからではなく
そういう性質だから
虹とは
関係が成立している
その瞬間のかたち
世界は
関係が結ばれたときにだけ
立ち上がる見え方でできている
だから
きっと
まだ世界は
色づく
題 カラフル
もし楽園があるのなら
そこではもう
傷ついた者が
傷を抱え続けなくていい
恐怖はほどけ
夜もあたたかい
思い出から
痛みは消え
愛だけが残る
奪われたものが
戻るわけではない
消えた命は
消えたままで
失われた時間も
地上に置き去りのままだ
けれど向こう岸では
もう
傷を握り締めて
眠らなくていい
泣き声は
そこで終わる
きっと
花曇りのような空だ
強すぎる光はなく
裁きの嵐もない
ただ
傷ついた者が
安心して
力を抜けるほどの
やわらかな曇り空
そして
痛みを覚えているのは
苦しみを与えた側だけ
壊した者は
ねじ曲がった道から解放され
自分が与えてしまった苦しみを
深く知り続けてしまう
逃げ場のない理解として
どれほど冷たかったか
どれほど怖かったか
どれほど人生を歪めたか
その重さだけが
静かに
魂へ残り続ける
赦されるためではなく
ただ知り
後悔に深く沈む
だから楽園では
傷ついた者ほど先に
眠りへ近づいていく
そこでは
何も警戒せずに
春の曇り空の下で
眠る花のように
寂しくはない
怯えずに眠れる場所で
残された者たちの人生が
終わりきるのを待っている
急かさず
呼び寄せず
ただ
灯りを消さないまま
題 楽園
風は、意味を運ばない。
運ぶのは振動だけだ。
たとえば、誰にも拾われなかった言葉があるとしても、
それは消えたわけじゃない。
周波数がずれて、誰の耳にも触れなかっただけだ。
同じ風の中で、同じ速度で、同じ位相で立っている瞬間だけ、
言葉は音になる。
それ以外は全部、ただの揺れだ。
題 風に乗って
落下していく光を、 ただ見上げている。
掴めないから美しい、 などという綺麗事ではない。
本当は、 掴みたい。
冷えた指先で、 名前の消えかけた体温を確かめるように、 その残響へ触れていたい。
けれど、 永遠はいつも少し遠い。
だから私は、 来ないものを待つ技術ばかり上達していく。
夜更けの静かな窓。 飲みかけの水。 秋の曇天。
返信の来ない画面。
眠気と感情の境界が、 ゆっくり曖昧になっていく頃。
世界が、 完全にはこちらを向いていないと知りながら、
それでも微かな温度を拾ってしまう。
それは、 深海へ差し込む細い光に似ている。
届かない。 留まらない。
触れたと思えば、 もう輪郭はほどけている。
それなのに、 毎回ちゃんと傷つく。
毎回ちゃんと、
「今度こそ」を、 懲りもせず微量に信じてしまう。
その愚かさを、 自嘲しながら、 まだ捨てきれない。
刹那とは、 消えると知ってなお、
感情が手を伸ばしてしまう、 その反射のことなんだろう。
題 刹那