「なぁ、最近お前、声が枯れてるんじゃないか?」
妬ましい彼奴から声を掛けられた。たしかに最近の俺は声が枯れている。何故なら、あの人を思って泣きすぎたからだ。よなよなあの人を考えている。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃねぇよ。ほら、のど飴でも買ってこいよ」
「えー…面倒くさいな…」
一瞬沈黙が落ちる。
「あの人は元気か?」
「おう、相変わらずの愛を与えてくださる」
「そういえば、……。」
「なんだ?」
「俺、出張なんだ」
その言葉に興奮しない訳にはいかなかった。後の言葉には、理想の、夢のような言葉が続いた。
「あの人に会いたいか」
「お前が言うなら」
トントン拍子にことは進み、俺はあの人におめ通が叶うことになった。
「久しぶりですね」
「会いたかった。会いたかった、ずっと…」
返事を聞く暇もなく、あの人にぐりぐりと甘え、膝枕をしていただいた。
「ふふ、子供みたい」
「君の前なら誰だってそうなるに違いないよ」
「そうなのね」
「あー…君を感じる…愛しい人…俺を考えていてくれたよな。俺の事を全て、俺の事を考えて…愛して…気持ち悪い彼奴にキスをせがまれて可哀想に…」
「心配してくれて嬉しい」
「ずっと君を考えて、涙を流したんだ」
「そうなの?」
「君を攫う妄想もした」
ふふ、と相変わらず微笑むあの人は女神だ。彼奴への愛は嘘っぱちで、俺だけを愛している。あの人の彼奴への言葉は、その実俺に向けられている。
「はは」
「ん?」
頭を撫でるあの人。なんて愛しい…
「哀れな彼奴だ。君の愛は全て俺に向けられているというのに、君の口から出る嘘の愛に踊らされて、全く馬鹿な男だ」
「ふふ」
あの人は俺の頬を撫でて、そして、唇を優しく撫でている。綺麗な手が、俺の唇を…
「キスをしてもいいか」
「勿論」
ふ、と優しく唇が触れた。そして俺は天に昇る気持ちになった。あの人はふんわりと、熱を帯びた目で俺を見つめている。
「私のこと、攫ってみますか?」
「いいのか…」
「えぇ、勿論」
刹那、俺は刺された。疑問が浮かんだ。そして酷く裏切られた気分になった。
「私の愛を嘘っぱちだと言ったわ」
………。
「私の友達を埋めたわ、この包丁で」
………。
「愛してる、君を何より…」
………。
「私の愛を嘘っぱちだと言ったわ」
俺はもうすぐ事切れるのか。
………。
愛しいあの人の手で…なんて美しい…
最近、鬱陶しいことがある。
「よ!元気か?あの人も」
「まぁ、な」
「最近は季節の変わり目だから、心配でさ。なんかか弱そうだろ」
「そう弱い人じゃない」
会いたい。あの人に会いたいんだ。
昨日会ったばかりだ、昨日会ったばかりなんだ…
「会いたい…」
今朝から、いや、違う、会いたい。あの人に。昨日家に帰った時、彼奴の家の玄関の扉から離れて、現実世界に戻った時から。昨日の俺は涙が止まらなかった。
「う…うぅ…」
今朝、ようやく涙が乾いて、彼奴の顔を見る。愛されて喜びを感じている目だ。あの人に…愛を感じている。あの…あの人から愛を貰ったんだな。寝る前も寝る時も起きた時も…
自分の中の醜い感情がドロドロと彼奴を包み込んでいる。くそ、憎たらしいな。
「おはよう」
「おはよう!」
クソ、クソ、クソ!
「頼んどいたからな、今晩にはお前の家にいる」
すっと心の中の醜い感情が消えるのを感じた。あの人が居るのか?あの人が?喜びを胸に何とか抑え込む。しかし、我慢は難しいらしい。あの人の事を考えると欲という欲が抑えられない。
男子トイレにて、多目的トイレに向かった。
「あは、は…」
うぁ、あ…
あの人の優しい愛に包まれたら、どこまで幸せなんだろう。計り知れたところでは無いんだが…汚い喘ぎもあの方なら許してくれるんだ。俺はそれを知っているから。
俺は知っている。分かる。
「綺麗な人…美しい人…」
まだ治まらない。
大急ぎで家に帰り、そこに居たのは知らない者だった。憤慨し、その女を追い出すことにしたが、その女はまぁ美しかった。
「おかえりなさい」
その呟きに全て攫われてしまった。怒りも何もかもが消えてしまった。あぁ、許そう。ただいま。
「遅かったですね」
「ああ」
「会いたかったです」
ぎゅっと抱き締めてくる女に驚いた。この女は美しいから態々俺を選ぶ理由がない気がする。声も何もかもが美しい。
「俺も」
嬉しい、と微笑む女をキツく抱き締めて、尚且つキスもした。女は微笑んで受け入れ、離すまいと俺を抱き締めている。こちらも離すまいと抱き締めている。
ああ、愛を感じる。
ふふ、と微笑む女を膝に座らせ、此方に向かっている。胸に顔を埋めても、女は文句ひとつ言わず、寧ろ優しく抱き締めてきた。再びキスをして、何度もこれを繰り返した。当然、気分が高揚してくる。
柔らかな胸も、綺麗な唇も、一生お目にかかることも、触れることさえ叶わないだろう。
しかし、これは俺の望むものでは無い。
俺は立ち上がり、台所へ立った。
女を刺した。
まだ温かい女は何故だと問うている。
「お前は違う」
もう一度刺した。
彼奴は俺に、適当なものを押し付けてきた。俺はあの人以外許さない。
「待っています」
「百年経つまでに…帰って来てください」
「百合の花を愛でてください」
俺はその女を裏庭に埋め、愛しいあの人を想った。
ちら、と目を開けると眠気が私を抱き締めている。
あの日から、随分と気が楽になった。傷元でじゅくじゅくと膿んでいた膿を取り除いた様な気持ちで、かなり気が楽で。しがみついていたものを全て忘れてみると、かなり気が楽だ。
休日に出勤しなくていい、休日にやるべきことをやらなくていい。だってやるべきことがそもそも無いのだから。
太陽があんなに輝かしく見えるのは何時ぶりだろうか。誰かの膝に優しく寝かして貰えるのは初めてだと思える。
嗚呼、素晴らしきかな、あの人。
無償の愛をくれるあの人の愛に答えるために、愛を貰うために、愛を求めている。その美しい姿と愛は今、自分だけが独占している。
………?
何故って、そりゃあきみ、求めたからである。
堕落していると言うなれば、少しだけならあの人の膝に寝かしてやってもいい。すぐきみもあの人の虜になってしまうさ。あの人の愛は底なしだ。働いている時も、何をしている時だって、あの人の愛を求めてやまないんだ。
きっとこれは運命だ。きみもあの人の愛を頂く権利があるのだろう。本来なら独占したいところだが、あの人の前で醜態は晒すまい。あの人は、きみも自分も愛してくれる。
もしかすると、きみを、きみだけを愛してくれる、聖母のような人をあの人が紹介してくださるかもしれない。
いいのかって、構わない。あの人の愛によって自分は余裕ができた。素晴らしいこの愛を、私は得た。
…あぁ、暫くしたらすぐ退いてくれ。その人はあくまで私の愛なんだ。奪おうとするならばきみがどうなろうと私の知ったことでは無い。
………。
どうだい?夢心地だろう。ひどく愛がこもった表情で微笑んでもらえて、ひどく愛がこもった口に褒めてもらえて、ひどく愛がこもった腕に抱きしめてもらえて、ひどく愛がこもった手で撫でてもらえて、ひどく愛がこもった声で愛を囁いてもらえて、望めばあの美しい唇に接吻も給われたんだ。
そうだ、きみも愛に飢えているな。あの人に頼んで、愛をくれる人を探すといい。きっとすぐ見つかるさ。そろそろ起き上がってくれ。愛しいあの人は私のものだ、そろそろ膝から退くといい。
………。
愛しい人、ようやく君の膝の上に戻ってこれた。はあ…なんて美しい。君の傍で眠りたい、君の傍で目を覚ましたい。君の微笑みは私の為だけにあればいいよ。明日が嫌だ。きみと離れなければならないから。私を考えていて。私の姿を覚えていてくれ。片時も忘れることは許されないんだ。
常に私を膝の上に乗せていてくれ。君の真実の愛は私の元にある。私が愛するのは君で、君が愛するのは私だ。どんな時も君は私を愛さなければいけない。愛しい君は私へ愛を囁くんだ。さっきの奴への愛は嘘っぱちだね。分かるよ。
何故って、それは君が愛しているのは私で、私が愛しているのは君だからだ。愛しい人、君の手を煩わせて申し訳ないがさっきの彼奴…彼奴にも、丁度良い奴を紹介してやってくれないか?勿論私の二の次で構わないから。
やめてくれ、やめてくれ。撫でる手を止めないでくれ、君の手に愛がこもっていないと私は生きていけないんだ。君がいないと私の存在意義はなくなる!君というものを失えば私はどうして生きろと言うんだ!なんて酷い!
………。
あぁ、良かった。君の柔らかな愛のなんと愛しいことか…
あぁ、済まなかった。他の者の話をした私が悪かった。抱き締めるよ、撫でようか、抱き締めようか、接吻しようか、愛を囁こうか、何でもしよう。
愛しい君、他のものなんて愛でないでくれ。私は君がいればそれでいい。ほら、私に顔を見せてくれ。接吻をして、共に眠ろう。私達はずっと傍にいるんだ。
ほら、愛を囁いてくれ。
私だけだと言ってくれ。
君だけだと言うから。
「ご安心ください、命に別状はありません」
分かっている。私の父と妹は交通事故でついさっき怪我をしたらしい。幸いな事に命は無事で、後遺症は残らないかすり傷ばかりらしい。
どんな車に轢かれたのか聞くと、それはどうやらかなり激しい運転をしていた車らしい。
普段は穏やかな人柄で、親友がいるらしく、今は親友の人が傍にいる。偶然、近くにいたから不安で、なんとか警察に頼み込んで着いて来たらしい。
しかし、彼は身内でも無いのにどうして態々着いてきたのか。いるだけで大した意味もないように見える。
「申し訳ありません」
「何故、激しい運転を?」
できるだけ、平静を、冷静を保っているように見えるように振舞った。どうしていいか分からないし、もう大人なんだから。
彼は今、松葉杖があってようやく歩けるような骨折患者に見える。親友に背中を摩られながら、ようやく息をしているような声で息を吸い込んで、喋ろうとしている。
「…父が、倒れたって妹から連絡が来て…気が動転しました」
嗚呼、成程、家族を大切にしている人だ。急いで病院に行きたいんだろう。
どうして彼を責めればいいか分からない。責める必要があるのかも分からない。
ただ、目の前の彼は非常に寂しく、悲しい存在に思える。このまま私が彼に何もしなければ、彼はこれから先どうなるんだろう。
「修理代さえ頂ければ、実際かすり傷だらけで…」
私は彼を責めるつもりにならなかった。
ただ、彼を忘れることはこの先ないだろう。