会話がなかった。
おはようもいってらっしゃいもおかえりなさいもおやすみも何もない。
テレビを付けなければとても静かだった。
会話がないから何も分からない。
今日何があったとか、何時に起きて何を食べたとか。
知ってるのは誕生日と血液型と名前だけ。
きっと私に会いたくないんだ。
そう思っていたから私も極力会わないようにした。
ねえお母さん。もう私、大人になったよ。
私はもうここを出るからね。
何も言わずに行こうとしたのにどうして今になって私を見るの。
どこ行くの。
そう呟くお母さんの声は微かに掠れていて。
ねえお母さん。お母さんは私の好きな色すら知らないよね。
私もね、知らないんだ。
だから話すならまずはお互いのことから話そうよ。
貴女今、何歳になったの。
#36 好きな色
「半か丁か、傘を差すか差さないか。うーん」
どしゃ降りの雨の中、学校の下駄箱で一人うんうんと唸る。
朝の天気予報は見た。だから傘は持っている。
なら何をそんなに悩んでいるのかと言うと、自分が傘を持っていないふりをしたいからだ。
「なにひとりでぶつぶつ呟いてるの?」
「ああ、ちょうどいいところにきた。雨がな、降ってるんだ」
「まぁ、見れば分かるわね」
「ああ、見ての通りどしゃ降りだ」
「まさか天気予報見なかったの?」
無言の笑み。
そうだ俺はこいつの傘に入りたいんだ。だからこんな小芝居を。
「……いいわ。折りたたみ傘しかないから貴方半分濡れるけどいいわよね」
ああ、夢心地のようだ。触れ合う肩と肩、ほのかに感じる体温。
俺は今、こいつと相合傘を。
「……あの、俺濡れてるんだけど」
「だから言ったじゃない。貴方半分濡れるって」
「いや半分以上じゃね? 信じられないくらい服が冷たいんだけど」
「仕方ないでしょうどしゃ降りなんだから。傘に入れてもらえるだけ有難いと思いなさいよ」
尋常じゃないほどの雨。憧れの相合傘も、少女漫画のようにはいかないな。
「ああもういいや、俺も差す!」
「は? え、貴方、傘持ってたの?」
「誰が傘持ってないって言ったよ、ばーかばーか!」
「……は、はあああ?!」
#35 相合傘
ねえあたし、きっと落ちると思ったよ。
出会った瞬間からキラキラしてた。
だけどさぁ、落ちたらさぁ、きっとつらいよねえ。
だってどうみたってあのふたりは両想いで邪魔者はあたし。
邪魔しないであげてほしいの。
あたしはこの距離のまま。
これ以上はだめ。
大丈夫。
あたしきっとまた落ちるよ。
貴方じゃない誰かに。
#34 落下
1年前の今日。きみはまだ十八歳で、僕が十九歳だった頃。
駅前のナナ公前で誰かを待ち続けるきみを僕が見つけたね。
寒い中、何分待ってもこなくてきみは結局帰ったよね。
僕はずっと見ていたよ。
可哀想に。すっぽかされて可哀想に。
そんなに携帯ばかり気にしてさ。くるわけないのに気にしてさ。
僕はずっと見ていたよ。
温かい場所でずっとね。
いつまでそこにいるのかなって。きみからの連絡に気付かないふりしてにこにこと。
僕のことが大好きだったきみ。すっぽかされて可哀想に。
#33 1年前
「僕、この本がほしいです」
「あ……えと。それ、売りものじゃないです」
「え、非売品なんですか? どうして?」
「失敗作だから……です」
「在庫はないんですか?」
「はい」
「ならやっぱり。世界にひとつしかないこの本、僕にください」
「え……どうして」
「好きなんです、僕」
「ひゃ」
「この本が」
「あ……ああ……この、本が」
……
あの時貰ってくれた本。今も読んでくれているのかな。
#32 好きな本