安心が引き起こす弛みへの不安
海の底は、地球の終わり。
おばあちゃんの遺骨を、散骨しようかという話が出ている。
そうしたら海は、
地球は、
おばあちゃんの追憶に創られるんだ。
汐風に乗って、いつもそばに居てくれるんだね。
海を見たらまた、会えるんだね。
海の底は、地球の始まり。
数年ぶりにみかんを食べた。
或いは毎年家にはあったけど、気に止めてなかったのかもしれない。
あまり理解されない果物嫌いである私だが、数少ない食べられるフルーツのうちの一つが、みかんである。
かといって、好きかと聞かれたらそうでも無いと答えるだろうが。
無くても困らない、その程度である。
小さな頃は、果肉の周りの白い筋を全く気にすることなく食べていたのに、久しぶりのみかんは鮮やかな橙色でないと食べられなくなっていた。
ジャンクフードに侵された味覚に、自然の甘さが染み渡る。
その小さな、少し歪なオレンジの球体に、月日の流れと己の相変わらずの嗜好を馳せた、微かなひと時だった。
まだ11月だというのに、街は既にクリスマスというイベントに浮かれ気味である。
私が勤務するショッピングモールの店内は、電飾の眩しいツリーと彩やかな福袋の見本が交互に置かれ、よくよく考えると何とも不思議な光景である。
ジングルベルのメロディは、耳にタコができるほど聴かされた。
「自分には関係の無いイベントだよね」
そう言い聞かせて、早数年が経っている。
今年も24日は、安定の出勤日だ。
いつしか自分は、“イベント日の空き要因“としてシフトに入れられるようになった。
「元々、人が多いのも騒がしいのも性に合わないしさ」
いつからだろう。
皆が心躍らせるものに、素直に足並みを揃えて楽しめなくなったのは。
私って、こんなに趣の無い人間だったっけ。
レジをすり抜けた品物たちが、赤や緑の包み紙で着飾られては心の荒んだ私の手を伝い、客の手に渡っていく。
21時50分。疎らに残る賑わいを壊すように流れる蛍の光に、私は落ち着きを取り戻しつつある。
明日は休日。あと10分で、私は今年のクリスマスから逃れられるのである。
22時。はあ終わった。
人気の無くなった店内で、聴衆の居なくなったジングルベルが寂しく細く響いている。
帰りにコンビニでスイーツでも買おうかな。
「クリスマスイブだってのに、みっちり夜まで8時間働いてんだから」
必死になって世の流れにしがみつく自分の、何と哀れなことだろう。今日はダイエットは中止である。
色恋じゃなくてもいい。
別にクリスマスじゃなくたっていい。
彼氏が欲しくても出来ない、寂しい人でもない。
ただ私は、24日という日付にかこつけて買った、
このコンビニのケーキの美味しさを、
甘いね、と言ってただ分かち合う誰かを、
何年も何年も探しているのである。
家族もパートナーもいないこの自分の中で、消化しきれない「クリスマス」という響きが、居心地悪く残っていくだけなのだ。
クリスマスイブの喧騒の裏で、歯車のごとく動き回った1人の人間が、すっかり冷えきった帰宅の路を歩いていく。