好きじゃないのに
ねえ、私のこと好きじゃないのにどうして貴方は私を抱きしめるの?
どうしてなの? 貴方のその瞳が手つきが話す言葉が、私のためのものだなんて。
やめてよ。お願い、やめて。だって私は貴方のことを…
コーヒーの匂いと、物音で目が覚めた。
「起きたのか、おはよう。調子はどうだい?」
ああ、そうか。昨日は彼との日だったか。
「…最悪よ。起きてすぐに見るのが貴方だなんて」
「そう言うなって。僕達は昨日熱い夜を共にした仲だろ?」
「やめて、気持ちが悪い」
始まりは三ヶ月だか四ヶ月だったか、そのくらい。本当に偶然だった、たまたま一人で行った居酒屋に会社の同僚である彼が居て、飲みすぎて、そのまま。
だけれど、こんな関係だこんなにも長く続くなんて誰が考えただろうか。本当に彼が独身で彼女もいないことに感謝している。浮気相手なんてものになるのは死んでもごめんだ。
「はぁ…」
彼に聞こえない程度の大きさでため息をついた。
「君もコーヒー、飲む?」
「お願い」
彼はキッチンへと向かった。
今日も仕事がある、早く準備をにしければ。ひとまず顔を洗うために洗面所に向かう。
もう言わずとも家の構造がわかって、いちいち借りると言わなくていいほど、何度もこの家に来ている。
最初は、少しだけ嬉しかった。私は彼が好きだったからだ。好きな彼と長い夜を共にすることが出来て、彼と共に眠りにつくことが出来て、彼の顔を朝一番で見ることが出来て、
彼との二人だけの秘密が出来た気がして。
…でもそんな気持ちも最初だけだった。
彼にとって私はただの『都合の良い女』であって、そこに情なんてものは存在しないのだから。
私はそれに気がついた時、一人で長い間泣いていた。横で寝ている彼にバレないように、ひっそりと。
その後、しばらくは思ったように元気が出なくて上司が私に休日をくれた。それほど私は酷かったらしい。
それだけ、彼に対する私の気持ちは大きくて重かった。
顔を洗うだけにしようと思ったが、ついでに軽くメイクをした。彼が淹れたコーヒーを飲みにリビングへと行く。
「ああ、来たね。メイクをしていると思って丁度コーヒーを淹れ直したところだよ」
「そう、ありがとう」
ソファに座っている彼の隣に距離を空けて座る。
その間が埋まることはない。私が彼の気持ちに気づいたときから、私は彼のそばにいるのをやめた。私が空けた距離を彼は縮めようとはしない、それが彼の気持ちをありありと表しているだろう。
「そういえば、今日はふたりとも午前休だろ? 今メイクをする必要があったか?」
彼は離れた位置から私の頬を撫でる。彼はいつもそうだ。お互いの体が触れ合わない位置で、こういうスキンシップを行う。本当に狡い人だと思う。こうやって絶妙な距離感を保って私を自分から離れていかないようにしている。私は彼に見えない鎖で繋がれているようだった。
「別に、すぐにここを出るから。貴方と長い間一緒にいるなんて無理」
彼に溺れないように、これ以上私が虚しくならないように、また好きになってしまわないように、そのために私は彼に冷たく当たる。
彼が私のことを好いていないと気がついた瞬間から私はそうしていた。急に冷たくなった私に対して、彼が私に指摘をすることはなかった。
「はは、そうかい。で、もうすぐに出るのかい? せめて朝食ぐらいは食べていきなよ」
「気持ちだけ頂戴するわ」
「いいじゃないか、食べていきな。簡単なものだけどさ。…というか、もう用意してあるんだよね。だから食べて」
「…そうね、いただくわ」
こうやって私はいつも彼から離れられない。
「ごちそうさま」
彼の作った朝食は相変わらず美味しかった。
「皿、こっちに下げてくれ。…なあ、次は一週間後の今日と同じ時間でいいか?」
ああ、断らなければ…、本当は断るべきなのに。
「ええ、大丈夫よ。それじゃあ、そろそろ行くわ」
「ああ。また会社で」
それだけの会話をして、玄関で靴を履いて扉を開ける。
「ねえ、」
「何? なにかあった?」
「…いいえ、何も。それじゃあ」
ガチャン
彼の『いってらっしゃい』の代わりに、私の耳には無機質な扉の閉じる音だけが響いた。
ああ、本当にここには居たくない。
…もう、やめにしようこんな関係。来週彼に言おう。
.
.
.
「お疲れ。先に上がるわね」
「お疲れさまです、先輩!」
今日の仕事が終わり、無事定時で退社が出来た。
午前休みで定時帰りは少し罪悪感があるけど。いいわよね、別に。
ああ、でも少し気分があがるわね。最近は残業続きだったしね。
「よかったら、駅まで一緒に行かないか?」
上がった気分が一気に下がった。
ああ、この人はどこまで人の心を揺さぶるのか。
「はぁ…」
小さくため息をつく。
でも、ここはまだ会社の中。ここで断るのは少しためらわれるわね…。しょうがない、か。
「良いわよ。さっさと帰りましょう」
二人で駅までの帰り道を歩く。そこに会話はない。
…本当は来週言うつもりだったのだけれど、今言ってしまおうかしら。
「ねぇ、話があるわ」
歩いていたところを立ち止まり、私は彼にそう言った。
「話?」
彼も立ち止まる。
「ええ。…もうやめにしない? こんな関係」
「…どうして?」
彼の顔が見れない。
「もう限界なの。ねえ、貴方私の気持ちに気づいていた? ねぇ、私がどうして何度も貴方と共に夜を過ごしたかわかる?」
「…さあね。この話は本当に必要なことなのか?」
彼はこの関係を変えることを望んではいないようだ。でも、もうそんなことは関係ない。
「必要なことなのよ。ねえ、貴方は知ってた?私貴方のことが、ずっと好きだったのよ」
「そうだったの、か?」
「ええ、そうよ。貴方は気がついてなかったでしょうね。もし気がついていたら、あんな風な思わせぶりな態度をとるわけないものね」
「すまない」
…謝らないでよ。
「謝る必要はないわ。貴方は私のことが好きじゃない、そうでしょ?」
「…すまない。だが、」
「悪いけれど、もうなのよ。このまま貴方の相手をするにはもう…」
この先の言葉を、私は言うことが出来なかった。
「今まで、ありがとう」
それだけ言って、私は彼を置いて歩き出す。
「待って、待ってくれ」
思わず体がこわばる。だけれど、足は止めず、後ろを振り向きはしない。
ああ、もう私を突き放してよ。お願い、もう無理なのよ。
だって、だってもう、私は貴方のことが好きじゃないのに、
私は彼をずっと前から愛してしまっているのに。
ところにより雨
「ヘイsiri。今日の天気は?」
『今日の天気は晴れのちところにより雨予報。大粒の雨が降ると予想されます。傘を用意するといいでしょう』
「え〜、今日雨降るの? 卒業式なのに…」
ついに卒業式の日が来てしまった。悲しさと、新しい未来への期待と、緊張と、いろいろな気持ちがずっと私の心の中で暴れていた。
それに…今日は私の中で決戦の日でもあった。
今日私は彼に、京介君に告白するんだから。気合を入れなきゃ。
パンパンと二回気合を入れるために頬を叩く。そして指で頬を持ち上げ笑ってみる。
笑おう。お母さんだって言ってたじゃん。ちえの千笑は笑顔が絶えない子に育つようにつけたって。
笑わなきゃ、いい結果も逃げちゃうよね。
「ちえー? もう起きてるの? 早く下降りてきなさーい」
「はーい」
腹が減っては戦は出来ぬ、だよね! 早く下に行かなくちゃ!
自分の部屋がある二階から一階に降りて、テレビを見ながら朝ごはんを食べていると今日の天気予報が始まった。
『続いて、天気予報のお時間です』
『今日は全国どこの地域も一日を通して晴れ晴れしい青空が広がるでしょう』
『そうですか。この時期は卒業式シーズンですよね。桜も満開といった様子ですし、よい卒業日和ですね』
『そうですね〜。それでは…』
あれ? 今日って雨が降るんじゃないの?
「お母さん、今日って雨降らないの?」
「降らないも何も、一昨日ぐらいから今日はずっと快晴の予定でしょ。千笑が私に言ってきたんじゃない。卒業式の日が晴れで良かった、って」
お母さんが訝しげにこちらを見ていた。
「そうだっけ? まあいっか。あ、もうこんな時間じゃん!…ごちそうさま! じゃあお母さん、先に行ってるから!」
「はいはい、気をつけてね」
カバンを持って玄関へ向かう。
…傘はいいかな。お母さんも、テレビもああ言ってたしね。今回はsiriが外れたってことで。
「いってきまーす!」
私は勢いよく家を出た。この先への不安を飛ばすかのように。
それは天気予報の通り、晴れ晴れしい、人生の門出にふさわしい晴天だった。
.
.
.
「卒業なんて寂しいよ〜。このまま離れたくない〜!」
「大丈夫だよ、私達ズッ友でしょ? すぐに会えるって」
「そうだよ。てか、すでにウチら遊ぶ予定あるしね」
「そうなんだけど…」
卒業式が終わった後、一度クラスに戻り最後のHRをしている。私のそばにはいつも一緒にいた友人がいた。でも私には彼女たちを気にしている余裕なんてこれぽっちもなかった。
…正直緊張でどうにかなりそうだ。何か別のことを考えようとしても、すぐに京介君が私の頭にうかんでくる。
もし、告白してOkを貰えたらどうしよう…。いや、そもそも付き合えると決まったわけでもないのにこんなこと考えても…。でもでも、最近結構ふたりきりになることも多かったし、結構良い雰囲気になることもあったはず…だし。どうしよう、もし付き合えたら…。ショッピングモールに行ったり、遊園地に行ったり、せっかく桜が咲いているんだからお花見もいいよね。
「先生は、ぜんぜいばぁ、お前らとぉ、このいぢね゛ん゛をずごずごどがでぎでぇ、ぼんどうに幸ぜだっだぞぉ!」
…何?
「ちょ、原ちゃん泣きすぎ」
「そうだよ〜。いい大人が情けないぞ〜」
なんだ原Tか。相変わらずだなぁ。
「てか、さっきから千笑ピめっちゃ静かじゃね? だいじょぶそ?」
「え…? あ、うん。だいじょぶだいじょぶ」
「どこがよ。めっちゃしおらしいじゃん。もしかしてぇ、千笑ピも悲しい系!? うっそ意外なんっですけどぉ」
どうやら私が京介くんのことを考えている様子を悲しんでいると勘違いされたらしい。
「違う違う、千笑は緊張してんだよぉ」
「そうそう、だって今日は千笑ちゃの愛しの京介君に告白する日じゃん?」
バッチリバレてたみたいだ。…ちょっと恥ずかしい。
「やだぁ、そういうことぉ? もー、千笑たよ可愛すぎぃ」
ついにはさっきまで咲いていた香奈恵も私にヤジを飛ばすようになった。
無意識にちらりと京介君の方を見る。
…! 京介君と目があった。うそ、こっち見て微笑んでる! しかも小さく手まで振って…!
私も軽く微笑んで京介君に手を振り返す。
「ちょっとぉ、誰に手なんか振ってんのよぉ?」
「青春だねぇ」
「もう、さっきからうるさいよ!」
「あははは」
テレビの天気予報通り、天気は晴れ晴れしい晴天のままだった。
最後のHRが終わり、みんなで校庭へ出た。皆各々写真を撮ったり、友達や想い人との別れを惜しんだりと様々だ。
人もまちまちになった頃、
「さあ、可愛いかわいい恋する千笑ちゃんのために一肌脱ぎますかね」
「そうだね〜」
「さ、行くよ」
彼女たちはそれだけいうと、京介君のグループの方に行って京介くん以外の男子達とともにどこかへと行った。きっと私のために一足先に打ち上げの会場に行ってくれたのだろう。
私は本当にいい友達に出会えたみたい。
京介君は今丁度グループから抜けていた。忘れ物を取りに行っていたらしい。
私は彼が帰って来るまでに、自分の身だしなみを簡単にチェックする。
髪型は? 前髪は崩れてないよね? 制服も、おかしなところはない、よね?
スカートは…どうしよう。もう一個だけ折っとく? …よし、これで準備万端!
「…あれ、あいつらどこいったんだ?」
京介くんが戻ってきた。
「京介君」
「ああ、千笑。ちょうどよかった、あいつらどこに行ったかわかる? てか香奈恵たちもいねぇじゃん」
「あ、みんななら先に打ち上げの会場に向かったみたい」
「え、そうなの? まじかよ…。まあいいか、千笑も打ち上げ参加するだろ? なら一緒に行こうぜ」
そういって私の前に行こうとする彼を私は急いで呼び止める。
「待って! 京介君。…話があるの」
私がそう言うと彼はこちらに振り向いた。
「そうなの? 話って?」
「えっとね…」
ここに来て急に緊張がぶり返してきてしまった。
落ち着いて、深呼吸、深呼吸。
スー、ハーと小さく深呼吸をして、京介君の顔を見る。
「京介君。私ね、あなたのことが好き。私と付き合ってくれませんか?」
…言ってしまった。ついに、言ってしまった。
言い終わったあと、すぐに下を向いてしまった。恥ずかしくて彼の顔を見ることが出来ない。
「…」
ちょっとの間、沈黙が続く。
「千笑…」
突然名前を呼ばれ、反射的に顔を上げた。その時に見えた彼の顔は悲しさでいっぱいだった。
「…ごめん」
「…え?」
「ごめん千笑。俺、お前とは付き合えない」
頭にものすごく大きな衝撃が走った。鈍器で殴られたような、はたまた稲妻で打たれたかのような、わからないけれど、ひたすらに大きくてものすごい衝撃だった。
「そっか。ごめんね、迷惑だったよね。ごめん」
「いや、こっちこそ…。なんていうか、その、…ごめん」
「ううん。大丈夫」
涙が出そうだ。でも、どうしても彼の前では泣きたくはなかった。
「私、あとから行くからさ、先に打ち上げに行っててよ」
最後の力を振り絞って彼にそういう。
「うん、…わかった。それじゃあ、また後で」
もう、私は彼の顔を見ることは出来なかった。
彼が見えなくなった瞬間、涙が枷が外れたようにボロボロと出てきた。
「ふっ…うっ…」
ああ、さっきまでうかれていた私がバカみたいだ。何が付き合えたらよ、何がいい雰囲気だったよ、なにひとつ良いものなんてなかったよ。
ああ、こんな時での雲ひとつなく晴れている空を恨む。八つ当たりだと心ではわかっているけど、そんなことでもしないと私の心のダムが崩壊してしまう。
ああ、なんでこんなに晴れてるの? こんな時に限って…。私が悲しんでるんだから雨でも降りなさいよ。
…雨?
「…siri、今日天気は?」
気がついたら、私はスマホを取り出してsiriに話しかけていた。
siriはいつもどおりの無機質な感情のない声で答えた。
『今日の天気は晴れののちところにより雨予報。大粒の雨が降ると予想されます。傘を用意するといいでしょう』
はは、晴れのちところにより雨って…
「予報当たっちゃったじゃん。傘なんて、用意してないよ…」
雨はまだ止まない。止む兆しすらない。
「あ、そうだ…。香奈恵たちに連絡、しないと」
でも、あんまり乗り気じゃないな正直。…連絡ぐらいはしないとダメ、か。
震える手を頑張って制してメッセージを打つ。
『雨が止まないのでいけません』
それだけ打って送信する。
雨は、まだ止まない。
特別な存在
リナちゃん。私のリナちゃん。私の、私だけのお友達。とっても、とぉっても大切な私の特別な存在。
なのに…、どうして私をそんな目で見つめるの? やめてよ、どうして? どうして私をそんな目で見るの。
私、どこかおかしい? そんなことない、よね? だって私はただ彼女が好きなだけなの。
私はただ、なんでも話せるお友達がほしかっただけなのに。一緒にいてくれるお友達がほしかっただけなのに。
「おはよう、リナちゃん。今日もいい朝だね」
今日もカーテンを開けて、陽の光を浴びながら私のリナちゃんに朝の挨拶をする。そしてぎゅっと抱きしめる。
これが欠かせない私のルーティーン。彼女に挨拶しないと私の一日は始まらないの。
「…」
だけど、今日も相変わらず彼女からのお返事はなかった。
まあ、いっか。いつものことだしね!
「今日のご飯はなにかなぁ…、早く下に行かなくちゃ! リナちゃん、待っててね! すぐに戻ってくるからね!」
「…」
「ふふふ、そんな悲しい顔しないで。あなたを捨てたりなんてしないからね」
タッタッタッ
下で私を待っているであろう朝ごはんのために小走りでダイニングに向かった。
「はぁ〜、美味しかった!」
ガチャッ
リナちゃんは私の部屋で私を待ってくれていた。真っ白の肌に、大きくて真っ赤な綺麗なおめめ、可愛いおべべに、綺麗でつやつやなお肌、サラサラで輝いている黒色の長い髪の毛。
ぜーんぶがかわいいの。
「ご飯美味しかったよ、リナちゃん。 ふふ、今日もかわいいね。ずっと見ていたいぐらいだよ。…あ、そろそろ時間だ! 学校に行かないと」
「いってきます! リナちゃん!」
『カナチャン、いってらっしゃい』
リナちゃんがそういってくれた。今日はリナちゃんのおかげで頑張れそう!
「はあ〜、やっと学校終わったよぉ。ほんとに長すぎぃ」
「それなぁ。…ま、もう学校終わったし今日金曜日じゃん? 遊びいかね?」
学校が終わり、放課後になったところで友人から声をかけられた。
「あーごめん、無理だわ。また今度にしてよ」
「また例のリナちゃん? ほんとに好きだよねー。ね、こんど会わせてよ。うちカナがこないなら帰るわ。一緒に帰ろ」
「いいよー、帰ろ帰ろ」
二人で教室を出て帰路につく。彼女はリナちゃんの話を聞いてくれる人だ。だから仲良くしている。
「それでね、今日のリナちゃんは一味違ったんだよ」
「え、なになに」
「今日のリナちゃんはね、私に『いってらっしゃい』って言ってくれたの!」
「え?」
私がそういった瞬間、彼女の顔色が変わった。悪い方に。
「え、勘違いだったら悪いんだけどさ…、あんたの言ってるリナちゃんってさ、」
「あ、もう私の家じゃん! あ、ごめん。遮っちゃった…。なんて言ったの?」
家につき、もうすぐリナちゃんに会えることが嬉しくてつい彼女の言葉を遮ってしまった。
「あ、ううん。なんでもない。…じゃあね。また月曜日」
「? うん。じゃーね」
彼女の様子が少し変だった。顔には困惑と少しの恐怖があるように見えた。
まあ、いっか! そんなことより、早くリナちゃんのところに行かなくちゃ!
「ただいまぁ!」
「はい、おかえりなさい」
珍しく母親が家にいた。
「…なんでいるの?」
「なんでって…、いたらいけない理由なんてあるの? ここはあなただけの家じゃないのよ。それにやらなくちゃいけないこともあったし」
「やらなくちゃいけないこと…?」
なんだか胸騒ぎがした。急いで部屋に行かないと。
ダッダッダッダッ
母親がなにか言っていた気がしたけれど、そんなものを気にしている余裕はなかった。
ガチャッ
「…ない。リナちゃんが、…ない」
私の部屋に、リナちゃんはいなかった。
「嘘、嘘、うそ、ウソ、ウソ」
部屋を必死ですみずみまで探す。
「どうして…? まさか!」
母親が捨てた。という考察が頭の中に生まれた瞬間、母親は私の部屋にやってきた。
「なにしているの、騒がしい…。ああ、あれのこと? あれを探していたのね? あれなら捨てたわよ」
「は…?」
頭が、真っ白になった。なにも考えられない。捨て、た? リナちゃんを…? ステ、タ?
「あなたがいつまでもあんなのに執着しているから、しょうがないことなのよ。高校生にもなっても必死にあれに話しかけて、いい加減大人になりなさい。いい切り替えになるでしょ?」
なにを、言って、るの?
「なに、言って、」
「大体、不気味なのよ、あなた。小さい頃はまだよかったし、いつかなくなると思ってたのに…」
「だって、リナちゃんは…。生きてるでしょ?」
「なに言ってるの? あなた。…はあ、やっぱりあんなもの与えるべきじゃなかった。だからあれほど止めたのに…。あんな不気味な人形をあなたに渡すのを」
ぬい、ぐるみ?
違う、違う、違う違う違う違う!
「違う! リナちゃんはぬいぐるみなんかじゃない! おかしいよ!」
そうだよ、じゃああの悲しそうな顔は? いってらっしゃいって言ってくれたあの言葉はなんだったの?
「おかしいのはあなたよ! いつもいつも一日中あの気味の悪い人形に話しかけて、挙げ句の果にはあのぬいぐるみは生きているですって!? 冗談はいい加減にしてちょうだい!」
なんで? どうして?
「どうして? なんでそんなこと言うの? リナちゃんは生きてるんだよ? いい加減にするのはそっちの方、だよ?」
「目を覚まして! あなた、どうしてこんな風のなってしまったの?」
私が、おかしかったの?
_それは違うよ。_
そうだよね、リナちゃん。
_そうだよ。ねえ、リナのことカナチャンは捨てないよね?_
「うん。もちろんだよ、リナちゃん」
「何、急に」
「あは、あははははは」
リナちゃん、リナちゃん。私のリナちゃん。私の、私だけのお友達。
ほら、やっぱりそうだ。私はおかしくなんてなってないの。おかしいのはあいつだ。
「カナ!」
「うるさい!! 黙れ!」
ああ、もう邪魔しないでよ!
_大丈夫だよ、カナチャン_
ああ、リナちゃん。私のかわいい、かわいいお友達。
誰もわかってくれなくても、リナちゃんだけはわかってくれる。リナちゃんだけが、私の全てをわかってくれる。私の、私だけの特別な存在。
リナちゃんのいない世界にいる意味なんてないよ。
だから、ずっと一緒にいようね、リナちゃん。
私はただ、私のそばにいてくれる人が欲しかっただけなのに。
バカみたい
ほんとに、本当にバカみたい。なんであんたが死ぬの? どうして?
どうして私を助けたの? あんなに冷たくしていたのに。あんなに突き放したのに。
…私はあなたのことが嫌いだったはずなのに。あなたに対してこんなに気持ちがほだされるなんて、バカみたい。
こんな気持を私の中にとどめておくなんて無理よ。
私はゴメンなのよ。
だから、今から相当馬鹿なことをするわ。
「スゥ…」
バカみたい。本当に、バカみたい。私、本当にここから飛び降りるのよね?
ここは高層ビルの屋上だ。私はあいつが死んでしばらく経った後、ある噂を耳にした。
『あそこにある、ここらへんで一番大きなビルには時を戻せる神様が小さな神社に祀られている。そこで屋上から飛び降りれば、時を戻してくれる』
という噂だった。
もちろん最初は疑った。だってあそこに神社なんてものはなかったはずなんだから。でも、少しだけ気になって見に行った。
そしたら、本当にあったんだ。神社が、そこにあるはずのない神社が。
そこで完全な疑いから、半信半疑までランクが上がった。
でも、もう我慢が出来なかった。あいつが勝手にかばったくせして、私にとんでもない置き土産を遺していったんだ。あいつは本当にバカだ。
だから、もう楽になりたかったんだ。でも、私は死ぬ気なんてひとつもない。だから、ここから飛ぶのも死ぬためなんかじゃない。
覚悟を、決めるんだ。
…行ける、行くんだ。
頼んだよ、神様。
トンッ
私はふわりと飛ぶように、ビルから飛び降りた。
私は目が覚めるとあいつの横にいた。
日の位置や周りの様子を見るに、今は下校中のようだ。
ここなら、まだあの時までは時間があるな…。あれが起きた原因は私が横断歩道でカバンから小物を落としてしまったのが原因だった。
あの時はたまたまカバンを開けっぱなしにしてしまっていた。今回はきちんと閉めなければ。大丈夫だ、何も問題はない。あの横断歩道を渡りきればもう問題はないはずだから。
「…大丈夫? ぼーっとしているみたいだけど…。調子悪い?」
「ッ…。別に、なにもない」
「そう? ならいいけど」
どうやらかなりの時間考え込んでいたらしく、あいつから心配の声がかかった。
「そうだ、次に渡る交差点のことだが…。お前はなにがあっても気にせずに渡れ。いいな」
まあ、こんなことを言ってもあいつが言うとおりに動いてくれるとはあまり思わないが、一応言っておく。
「え? うん。でもなんで?」
「なんでもない。別に普通に渡ればいいだけのことだ」
「そ、そっか。わかったよ」
そこからしばらく沈黙が続いている。
ドッドッドッ
私は柄にもなく緊張していた。それはそうだろう。一人の命が私の手にかかっているのだから。
正直バカみたいだ。あいつを助けようとしていることも、あいつを助けようとしてあのビルから飛び降りたことも、実際に過去に戻っていることも。
でも、もうそんなことを考えていてもしょうがない。
…もう大通りに出てしまった。もう、横断歩道はすぐそこだった。
横断歩道までたどり着いた。今は赤信号だ。この信号が赤に変われば…。
ピッポ ピピポ ピッポ ピピポ
信号が青に変わった。二人で歩き出す。
大丈夫だ、もう半分は渡り終わった。あと、あと少しだ。よし、もうこのまま行けば無事に着ける…。
どてっ
後ろで誰かが転んでいる音が聞こえた。
思わず後ろを振り向く。そこには横断歩道でコケてしまい泣きじゃくっている子供。
そして横目に見えるのは、猛スピードで子供に向かってきているトラック。
「おい、お前は…」
私があいつを止める前にあいつは子供へと向かっていた。
あいつは子供の元へと向かい、そのまま私たちが先程までいた方に戻ろうとしている…が、トラックはもうすぐそこまで来ていた。
あいつのみだったら、きっと助かる。でも、子供を抱えながらは無理だ。
私は、気がついたら走り出していた。
ドゴッ! …ドサッ
二つの衝撃音があたりに響いた。
ああ、私は死ぬ気なんてものはなかったのに。
気がついたら、私は走り出していた。あいつの背中を突き放していた。気がついたら…、私はトラックに跳ねられていた。
あいつがこちらへ走って来ているのがわかる。大粒の涙をボロボロと流しながら。野次馬の一人が電話しているのが見えた。おそらく救急車を呼んでいるのだろう。
私は思っていたより冷静だった。
「…ほん、とう、に、バカ、み、たい」
「ねえ、なんで? なんで君が轢かれているの? ねえ、どうして? …死なないでよ」
あいつは轢かれて醜い様になっているだろう私を見つめてそういう。
弱々しく震えていた。
「お願いだ、から、お前、は、私み、たい、に、は、なる、なよ。い、き、てく、れ」
「ねえ、最期みたいなこと言うのやめてよ! 死なないでしょ? ねぇ、死なないでしょ?」
こんなことをいうのはバカバカしいとは思っていた。でも、言わずにはいられなかった。私が気づくよりももっと前から
「わた、しは、あん、た、が、すき、だった…み、たい、だ」
「…え?」
ああ、本当に柄じゃない。私がこんなことをするなんて。私が他人にこんな感情を抱くなんて。私が他人のためにこんなことをするなんて。
本当に、ほんっとうに…
バカみたいだ。
ほんとうに、君はお馬鹿な人だよ。…大丈夫、君は僕が助けるから。
二人ぼっち
ぽちゃん、と音がして、目を開けたら
そこは夢の中。
「ふふ、また来てくれたんだね。嬉しい」
「当たり前じゃん」
ここは、二人の、ふたりだけの空間だ。
私と彼女以外何もいない。人間どころか動物も植物さえも。
「今日は何をしようかしら?」
「今日は久しぶりにお話しよう? 最近人肌が恋しくて…」
「もちろん! 二人でくっついて、二人だけのお話! とっても素敵よね!」
彼女はそういって屈託のない綺麗で眩しい笑顔をこちらに見せる。
彼女はとても美しいんだ。もちろん容姿は言うまでもなく綺麗だ。でもそれ以上に心が綺麗なんだ。
彼女の中には汚れなんて一つもなくて、まだ何にも染まっていない純白の彼女。そんな彼女が私に笑いかけている、その事実だけで私の心は洗われるんだ。
「ねえ、なんのお話をする? 私、あなたとのお話ならなんでも好きよ!
「そうだなぁ。あ、じゃあこの前あった…」
二人で他愛もない話をする。中身のない、本当にくだらない話。でも、私にとってこの時間は何よりも大切で私の心の支え。
二人でしばらく話した後、しばらくの沈黙が訪れた。いつも、必ずこの時間が訪れる。二人の二人だけの心が通じ合うような時間。
そこには言葉なんてなくて、そもそも言葉なんて必要はなくて、何を言わずとも私と彼女は自然とこの時間を共有する。
そんな時間にピリオドをうったのは彼女の方だった。
「ねえ、ふたりぼっちだね」
彼女はおもむろにそう言った。穏やかで、何かを確かめるようなそんな声色。例えるなら、手のひらの中にある宝物がその手にあるかどうかをゆっくりと確かめるかのような、そんな声色。
「それって普通、ふたりきりって言わない?」
私がそんなことを言えば、彼女は薄く笑った。
「だってここには私とあなたしかいないでしょ? だからふたりぼっち。私は前までひとりぼっちだったのよ」
彼女は今度は悲しそうに微笑む。
でも、それは私も同じなんだよ。
なんて思ったけど、それよりも今の彼女を見ていられなくて、彼女のそんな顔を見たくなくて、私は彼女の頬に触れようとする。
だけど、その手が彼女に触れることはなかった。
ああ、彼女に触れることが出来なくなってしまった。
「もう、時間みたい。…ねえまた来てくれる? 明日も来てくれる?」
「もちろん、会いにいくよ。だって私達は」
ひとりぼっちの人間達だから。
その言葉を言い切る前に彼女とのつながりが切れた。電話のようにプツンと。
そして、朝が来てしまった、一人ぼっちの朝が、彼女のいない朝が。
彼女はここにはいない。
だから、私はまた夜、夢を見る。彼女に会いに。彼女とふたりぼっちになるために。