入野 燕

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好きじゃないのに


ねえ、私のこと好きじゃないのにどうして貴方は私を抱きしめるの?
どうしてなの? 貴方のその瞳が手つきが話す言葉が、私のためのものだなんて。
やめてよ。お願い、やめて。だって私は貴方のことを…


コーヒーの匂いと、物音で目が覚めた。
「起きたのか、おはよう。調子はどうだい?」
ああ、そうか。昨日は彼との日だったか。
「…最悪よ。起きてすぐに見るのが貴方だなんて」
「そう言うなって。僕達は昨日熱い夜を共にした仲だろ?」
「やめて、気持ちが悪い」
始まりは三ヶ月だか四ヶ月だったか、そのくらい。本当に偶然だった、たまたま一人で行った居酒屋に会社の同僚である彼が居て、飲みすぎて、そのまま。
だけれど、こんな関係だこんなにも長く続くなんて誰が考えただろうか。本当に彼が独身で彼女もいないことに感謝している。浮気相手なんてものになるのは死んでもごめんだ。
「はぁ…」
彼に聞こえない程度の大きさでため息をついた。
「君もコーヒー、飲む?」
「お願い」
彼はキッチンへと向かった。
今日も仕事がある、早く準備をにしければ。ひとまず顔を洗うために洗面所に向かう。
もう言わずとも家の構造がわかって、いちいち借りると言わなくていいほど、何度もこの家に来ている。
最初は、少しだけ嬉しかった。私は彼が好きだったからだ。好きな彼と長い夜を共にすることが出来て、彼と共に眠りにつくことが出来て、彼の顔を朝一番で見ることが出来て、
彼との二人だけの秘密が出来た気がして。
…でもそんな気持ちも最初だけだった。
彼にとって私はただの『都合の良い女』であって、そこに情なんてものは存在しないのだから。
私はそれに気がついた時、一人で長い間泣いていた。横で寝ている彼にバレないように、ひっそりと。
その後、しばらくは思ったように元気が出なくて上司が私に休日をくれた。それほど私は酷かったらしい。
それだけ、彼に対する私の気持ちは大きくて重かった。
顔を洗うだけにしようと思ったが、ついでに軽くメイクをした。彼が淹れたコーヒーを飲みにリビングへと行く。
「ああ、来たね。メイクをしていると思って丁度コーヒーを淹れ直したところだよ」
「そう、ありがとう」
ソファに座っている彼の隣に距離を空けて座る。
その間が埋まることはない。私が彼の気持ちに気づいたときから、私は彼のそばにいるのをやめた。私が空けた距離を彼は縮めようとはしない、それが彼の気持ちをありありと表しているだろう。
「そういえば、今日はふたりとも午前休だろ? 今メイクをする必要があったか?」
彼は離れた位置から私の頬を撫でる。彼はいつもそうだ。お互いの体が触れ合わない位置で、こういうスキンシップを行う。本当に狡い人だと思う。こうやって絶妙な距離感を保って私を自分から離れていかないようにしている。私は彼に見えない鎖で繋がれているようだった。
「別に、すぐにここを出るから。貴方と長い間一緒にいるなんて無理」
彼に溺れないように、これ以上私が虚しくならないように、また好きになってしまわないように、そのために私は彼に冷たく当たる。
彼が私のことを好いていないと気がついた瞬間から私はそうしていた。急に冷たくなった私に対して、彼が私に指摘をすることはなかった。
「はは、そうかい。で、もうすぐに出るのかい? せめて朝食ぐらいは食べていきなよ」
「気持ちだけ頂戴するわ」
「いいじゃないか、食べていきな。簡単なものだけどさ。…というか、もう用意してあるんだよね。だから食べて」
「…そうね、いただくわ」
こうやって私はいつも彼から離れられない。

「ごちそうさま」
彼の作った朝食は相変わらず美味しかった。
「皿、こっちに下げてくれ。…なあ、次は一週間後の今日と同じ時間でいいか?」
ああ、断らなければ…、本当は断るべきなのに。
「ええ、大丈夫よ。それじゃあ、そろそろ行くわ」
「ああ。また会社で」
それだけの会話をして、玄関で靴を履いて扉を開ける。
「ねえ、」
「何? なにかあった?」
「…いいえ、何も。それじゃあ」

ガチャン

彼の『いってらっしゃい』の代わりに、私の耳には無機質な扉の閉じる音だけが響いた。
ああ、本当にここには居たくない。
…もう、やめにしようこんな関係。来週彼に言おう。



「お疲れ。先に上がるわね」
「お疲れさまです、先輩!」
今日の仕事が終わり、無事定時で退社が出来た。
午前休みで定時帰りは少し罪悪感があるけど。いいわよね、別に。
ああ、でも少し気分があがるわね。最近は残業続きだったしね。
「よかったら、駅まで一緒に行かないか?」
上がった気分が一気に下がった。
ああ、この人はどこまで人の心を揺さぶるのか。
「はぁ…」
小さくため息をつく。
でも、ここはまだ会社の中。ここで断るのは少しためらわれるわね…。しょうがない、か。
「良いわよ。さっさと帰りましょう」
二人で駅までの帰り道を歩く。そこに会話はない。
…本当は来週言うつもりだったのだけれど、今言ってしまおうかしら。
「ねぇ、話があるわ」
歩いていたところを立ち止まり、私は彼にそう言った。
「話?」
彼も立ち止まる。
「ええ。…もうやめにしない? こんな関係」
「…どうして?」
彼の顔が見れない。
「もう限界なの。ねえ、貴方私の気持ちに気づいていた? ねぇ、私がどうして何度も貴方と共に夜を過ごしたかわかる?」
「…さあね。この話は本当に必要なことなのか?」
彼はこの関係を変えることを望んではいないようだ。でも、もうそんなことは関係ない。
「必要なことなのよ。ねえ、貴方は知ってた?私貴方のことが、ずっと好きだったのよ」
「そうだったの、か?」
「ええ、そうよ。貴方は気がついてなかったでしょうね。もし気がついていたら、あんな風な思わせぶりな態度をとるわけないものね」
「すまない」
…謝らないでよ。
「謝る必要はないわ。貴方は私のことが好きじゃない、そうでしょ?」
「…すまない。だが、」
「悪いけれど、もうなのよ。このまま貴方の相手をするにはもう…」
この先の言葉を、私は言うことが出来なかった。
「今まで、ありがとう」
それだけ言って、私は彼を置いて歩き出す。
「待って、待ってくれ」
思わず体がこわばる。だけれど、足は止めず、後ろを振り向きはしない。
ああ、もう私を突き放してよ。お願い、もう無理なのよ。
だって、だってもう、私は貴方のことが好きじゃないのに、









私は彼をずっと前から愛してしまっているのに。

3/25/2023, 3:51:35 PM