そのときが来たら俺はどうするのが正解なのだろう。
喜びを爆発させて、手をとってぶんぶん振り回して、最後に甲にキスをするのがらしいのか、無難に体の前で手をひらひらさせて、お互いに近づいて笑顔で挨拶すればいいのか。さすがに駆け寄ってハグしたら捕まってしまうだろう。まだ、その人と会う話にすらなっていないのに、そういう妄想ばかりする。
経験の浅い者によくある話だ、という自覚はある。それだけはある。
とにかく俺はその人が気になって気になって、それはもう気になって仕方がないのだ。本当はどんな人なのかも知らない。分からない。会った瞬間幻滅するかもしれない。されるかもしれない。とにかく何も分からない。分からないくせに、ポジティブな気持ちだけが膨れあがって胸がいっぱいになって、仕事どころじゃない。眠ることもできない。冷静になるまでもなく恥ずかしい。自分で自分が見ていられない。狂いそうだという理不尽な感覚だけが一丁前にある。
思うに、選択肢を素早く、複数用意できるのが経験を積んだ人、豊かな生きかたのできてきた人なのだ。そう思うと、俺の半生は空疎で、粗末で、貧相だったなと思う。いや、分かる。だから自分の気持ちが分からない。比較対象がない。ないわけじゃないけど、風化しすぎてサンプルとして用をなさない。だから、このよく分からない気持ちが実ることはないだろう。そう、何度も自分を説得し、何度か諦め、放棄し、そしてまたその気持ちを拾って、棚に飾って眺めては悦に入っている。
もし、本当にその人に会えたなら、俺はどう振る舞うべきなのだろう。どうしたいのだろう。力の入れかたが分からない。抜きかたも分からない。効率が悪い。結局「頑張る」しか出てこない。疲労した頭で思う。ない尽くしの手札で考える。俺の提示できるもの。与えられるもの。無謀な望み。
経験という煉瓦なしに、俺は泥から粗末な犬小屋でも建てられるというのだろうか。
「今日も演奏、素敵だったわ。ありがとう」
そう言って、C***さんが頬に口づけをして去っていく。それが彼女にとっては(ある程度気に入っているとか、そういう前提があるにしても)それなりに珍しくないことだと知っていても、やはりどぎまぎしてしまうのは、俺が男だからなのか、彼女がそれだけ美人だからなのか、その両方なのかは分からない。横で見ているあの人も特に気分を害した様子を見せないから、構わないといえば構わない。それに、あの人によれば俺も大概キス魔だからどうでもいいらしい。そもそもお前は私のモノじゃない、と言い切られたときはちょっと悲しかったから、そのへんの感覚は単純でいて大層複雑なのだ。これがヒトの機微というやつか、とあるとき漏らしたら、それだとまるでお前が人間じゃないみたいに聞こえるぞ、と笑われたから、それはそれでなんとも言えない気分になった。
まあ、マウストゥマウスじゃないからいいか。
そう思うことにする。
「さて、どうする?少しなら飲むのに付き合ってもいいが」
「そうですね――」
あの人の言外の誘いに俺はちょっと考える。ここの酒場は何度か来ているが、品ぞろえはよく言えばオーソドックス、悪く言えばコンサバなので、外しはしないが嵌りもしない。質についてもそれは同じだから、意外な発見、というのも期待できない。
「今日はいいです。それよりも――」
そう言ってあの人の腰のちょっと上、手を置きやすい場所に触れる。背丈があまり変わらないから、自然と腕を伸ばした先がちょうどそこに収まるのだ。もっと積極的な男ならばそのまま抱き寄せやすいのかもしれないが、俺にはそれはあてはまらないようだったし、彼女もそれで喜ぶタイプではない。
「ふふ、今日は妙に積極的だな」
「そうですか?まあ、さっきまでの曲のせいですよ。酒場ですから」
そう言って俺にしては珍しくちょっとだけ彼女を引き寄せると、彼女は俺の鎖骨のあたりに、挟むように手を置いてそっと撫ぜる。ぞわりとしたものを感じるが、俺は身体を引かずに、むしろ前に出て彼女の耳元で、それらしい言葉を囁く。
「そのよく分からない言葉、なんとかならないのか?たまに水をさされた気分になるんだが」
そう言う割に、距離を保ったままに熱い、おそらく酒くさい息で彼女は囁き返した。俺は一度身体を離し、軽く口づけをする。至近距離で見た彼女の目は、言葉ほど冷めてはいない。
「すみません、つい。たくさんしてください、って意味です」
「ならいい。せいぜい可愛がってやる。いつもとは違うだろうしな」
そう言うと、彼女は寄りかかっていた壁を離れてカウンターへと向かい、俺も黙って従う。案の定、おや、今日は飲んで行かれないんで?という言葉をかけられるが、俺は無言で彼女に視線を向けた。彼はちょっと意外そうな顔をして、いつでもお待ちしていますよ――とだけ言うと、すぐに別の客に呼ばれ、俺たちから離れていった。
そのやりとりを黙って見ていた彼女は、まあ、いい。そういうのもお前の少しはましなところだ――そう言って俺の手を掴むと、酒場を出た。
「さあ、素面のお前はどうだろうな」
そう言った彼女の目は、やはりらんらんとした光を放っていた。
この部屋はいつでも暗い。だが、暗さにも色々あるから、日が出ているかいないかくらいは分かる。今は夜だ。
私は常軌を逸した殺人狂らしい。おのが欲望のために数千の命を奪ったと。だがそれを知ったのは、お粗末な裁判が終わったあとの話だ。本当かどうかは私には分からない。思い出せない。気がついたらこの部屋にいて、鎧を着た屈強な男たちが、食事や日々必要なものを怯えながら運んでくる日々だった。この部屋の中で、絶対の孤独が守られるかぎりは私は自由だ。いつ起きてもいい。いつ食べても、いつ歌っても、いつ本を読んでもいい。それだけのものは揃っていた。
窓には木の板がきっちりと打ちつけられているが、わずかな隙間から光が差し込むし、注意を凝らせば板のむこう側もかろうじて見える。ただしそこには城壁が控えていた。だから板などなくてもあまり意味がない。これも「裁判」の結果だ。
さて――とベッドから立ちあがる。そのタイミングで扉がそっと叩かれる。食事だろうか。どうぞ、と応えると、あからさまに怯えた目をした若い兵士が、食事と、そのあとに抱えるほどの荷物を手に入ってくる。
そこまで怯えることはないでしょう、そんなことを言っても、兵士は応えない。最小限のやりとりしか認められていないのもあるが、私と言葉をわすのも怖いのだろう。適当なものを求めると、お伝えします、マダム。とだけ彼は応え、ちょっと考える素振りを見せると、他になにかございますか、と若い声がわずかに柔らかくなった。いいえ、もういいの。ありがとう――そう返すと、兵士は顔を引き締め、かちりと礼をして部屋を辞した。
翌月、この青年兵士と囚人とがこの部屋で遺体になっているのが見つかる。彼女たちの間でどんなことが起こったのかを知るもの、語るものなどいなかったし、このあと大きな展開をみせることはなかったが、この事件は司法の世界では少々問題になった。囚人と看守とが親しくなっていた、かもしれなかったからだ。といって、彼らにできることもない。これを防ぐ方法は、看守が人間でないもの、たとえば完全に自律する機械のようなものか、あるいは囚人を“壊して”おくかしなければ、ならないからだ。前者は夢物語だし、後者を採るには社会がまだ“人間的”すぎたのだ。かくして、真相も解決法も見いだせないまま、囚人の名と、その悪行だけを残して、この事件は忘れ去られることとなる。
いつかこのおぞましい問いに解が見いだされることがくるのだろうか。
奴の視線は難しくない。憧れ、屈折、欲情、堕落、苛立ち、焦り、こもっているものは色々あるが、読みとるのは簡単だ。だからこそ征服しがいがある。奴はそれを望んでいる。それは圧倒的に正しい。同時に、なにものかから開放されたがっている。奴が言うにはそれは「故郷」らしいが、おそらくそこで染みついたもの、なのだろう。私に征服されることと、その関係は分からないが。
「あの、****さん。今夜――」
そう、私の部屋を訪れた奴がせつなげに訴えてくる。
「いいや、気分じゃない。またな」
「そうですか。では――」
だが、私はその申し出を蹴った。奴は少ししょげた様子で、水差しから注いだ水を呷る。いじめたいわけじゃない。焦らしているわけでもない。ただ、今夜じゃないだけだ。
「では」
「待て」
そう、短く言って辞そうとする奴を私はやはり短く呼び止める。
「そう構えるな。今日じゃない。――今でもないぞ?」
「はい」
ではいつ、と訴える奴の胸倉を掴み、引き寄せる。奴はあくまで無抵抗だが、重心のとり方から、奴の意思は明らかだった。
「――」
黙って唇を奪う。舌を差し出すと、奴は黙ってそれを受け入れた。
「――」
「――」
奴の息は異常に長い。以前海に落ちた宝石を拾ってきたことからそれは分かっていたが、奴が音をあげるまえに、私が唇を離した。
「あの」
そう、おずおずと問いかける奴はまったく息が乱れていない。
「生意気だな」
「え?」
「今してやってもいいが」
だが、やはり気分じゃない。奴を突き放し、その濃い色彩の目をのぞき込む。深いようで浅い黒目に囲まれた瞳に青が見える。
「明日、K****で待っていろ。気分がのれば迎えに行く。いいな」
「はい。あの、待ってます。できれば僕が酔いきらないうちに」
その瞬間、奴の瞳の青が煌きを増し、並外れた色を見せた。――実に単純だが、しかし、その奥に灯る暗さも奴は隠せていなかった。それは旅団長も、他の誰もが見落としている鈍い光だ。それがひどく憎くて、ものにしたい。そんな私の欲望を、こいつは察しているのだろうか。
どっちでもいいか。
どのみちこの男は――。
「行ってくれ」
そう言ってわざとらしく興味を失った、つれない女の顔をして奴を突き放す。
「待っています。......」
たまに口にするよく分からない、どこの言葉ともつかない何かを低くつぶやき、奴は部屋を出た。
「......」
ひとり残った部屋で私はす、と短剣を抜き、すぐに鞘に戻す。理由はよく分からない。投げるものでなく、格闘向けの重さと振るいやすさを重視した一本だ。
奴はすでに諸手をあげているようでいて、その実まったくそうではない。
「本当に、生意気なやつだ」
私に奴が征服しきれるのだろうか。
単純なくせに水のように捉えどころのない奴が。
――まあ、そうでなくては面白くないな。
私はそう心に決めるようにして、奴が残していった、よく冷えた水をひと息に飲み干した。
Cはそのとき、ようやくこれがただの逢瀬でないことを悟った。
目の前には不審感、いや、はっきりとした敵意を放つ傭兵が。後ろは小路のどんづまり。
「答えろ。ここで何をやっているんだ」
三度目、いや四度目の同じ問いかけに、傭兵ははっきりともう我慢できないという色を見せていた。たとえCがどこから見ても、ただの酔っぱらいなのだとして、それでも彼は彼の職分を果たさねばならない。そのくらいはCにもようやっとだが理解できた。むしろ、問答無用で殴られていても文句の言えない状況下で、要領を得ない答えを繰り返した自分をこれだけまともに扱おうとしてくれていた彼は、この商売よりももっと公的な、城勤めのガードマンとか、そういうものに就いてほしいとすら思う。
「この街はまだ不案内で。貴族街をふらふらしていたのはよくなかったと思います。連れと喧嘩してしまって、宿に帰る道を誰かに訊きたくて。教えてくれそうな人をあちこち探してたんです。本当です」
不審者扱いされているこの状況でA****や団長の名を出すのは拙いかもしれない。Cにはそう思えた。
「......」
聞いてやれるなら聞いてやりたいし、それで手打ちにできるだろうか――そう考えているのだと、Cは傭兵の表情から読み取った。と――
「おい、そこで何をやっている」
「?!」
「え――」
傭兵の肩越しに、今一番待ち望んでいた声が飛んでくる。
「衛兵、だな?こいつが何かしたか?」
「あんたは?」
傭兵はCに向けた以上に冷静に、腰の剣に手を回し、油断なく訊く。これがこの男の本来の態度か。Cに向けていた態度がいかに抑制的で冷静だったかがCには分かった。
「少し前にこいつと喧嘩してな。つい放りだしてしまった。帰りが分からないはずだから迎えに行けと団長に叱られて、随分探したんだが。ああ、こいつの身分は保証する。A****の名で納得できるだろうか」
「あ――」
「――」
その名を聞いて傭兵は剣から手を離し、姿勢を正して踵をかちりとつけた。
「かしこまらなくていい。私たちはただの団員だ。そんなに偉くないからそういうのは慣れない」
「...はい」
Vがそう言うと、傭兵は一転して表情を崩し、Vに、そして振り向いてCに握手を求めた。
「ふふ。そうされると悪い気はしないな。行っていいか?」
「もちろんです。A****に雷剣将ブランドの加護を」
表情を緩めるVに、傭兵は最上級の敬意を示すポーズをとり、Cの後ろ、道の奥に回ってふたりを見送る姿勢を見せる。
「行くぞ」
少しぽかんとしているCに一瞥を投げ、Vは小路を出た。
「さっきは悪かったな。代わりに今夜も可愛がってやろう」
「あ、はい」
あまり人前では言わないでくださいよ、という言葉を飲み込んでCが傭兵を振り返ると、わずかにもじもじした様子の傭兵と目が合う。慌てて目をそらしたCだったが、比較的夜目の利くCには、傭兵は腰元で中指を立て、続けて親指を立てた。Cは振り向いて歯を見せて笑うと、拳を突き出し、ぐっと親指を立てて返した。