打ち寄せる波が、足を濡らす。
俺は構わずそこに立っていた。
「海、初めてだ」
誰にともなく呟く。
否、誰もいない。完全な独り言。
目をつぶった。
左右に広がる波の音が耳を覆いつくす。
こんなに心が落ち着いたことはないと思った。
打ち寄せる波。引き返す波。
足下の感覚で感じとりながら、しかしそれを見ることはせず、音だけを聞いていた。
…この音を小豆で表現した天才がいたらしいが、一体どこの誰なんだろう。
じゃぼ、じゃぼ、
目をつぶったまま、一歩ずつ、海の中に進んでいく。
ほとんど無意識だった。
だんだん、波の力が強くなっていく。
打ち寄せる波に押され、引き返す波に引っ張られた。
それでも構わず進んでいく。
目は、変わらずつぶったまま。
開けたら、怖くなりそうで。
ざばざば、ごぼごぼ、
よろけながら進む。
進んで、進んで、最期に、
引き返す波に従って、海に身体を沈めた。
【波音に耳を澄ませて】
自分と相棒、二人しかいない電車の中。
心地よい音をたてながら揺れる車内。
流れる景色を見ながら、ぽつりと呟いた。
「このまんま、遠くに行けたらなあ」
「珍しいな、そんなこと言い出すなんて」
「なんとなく思ってさ」
「行きたいのか?遠くに」
「そうできたらいいな~とは思ってる。…このまま、誰も知らないところまで行ってさ、そこでお前と二人で暮らす」
ぽつり、ぽつり。
小雨のようなテンポで会話が続く。
「俺もついてく前提かよ」
「お前いなきゃ意味ねえよ」
「なんで」
「…もう嫌なんだ、お前が一人で遠くに行くの。どうせ遠くに行くなら、オレと一緒に行ってほしい。ずっと一緒がいい」
「………」
「お前一人だけ、いなくなんなよ。な?」
「…」
言葉がなくなった。
ガタンゴトン、心地よい音だけが響く。
互いに目を合わせることもなく、ただ景色を眺めていた。
景色から目を離さないまま、相棒が肩を寄せてくる。
景色から目を離さないまま、それを受け入れた。
「俺のこと好きすぎだろ」
「うん、世界一」
【遠くへ行きたい】
アイツからしたら、うまく隠れているつもりなんだろう。
しかしあのカーテンは傍から見ればあまりに不自然だし、尻尾も丸見えだ。
ガキじゃねえんだから、と思いながら、気配を消して目の前のいたずらっ子にゆっくりと近づき、縮こまっている体をカーテンごと抱き締めた。
【カーテン】
______
捕獲されたときの第一声は「カーテンに喰われた!!」だったそうな。
あまりに純粋で深い、恋情。
【青く深く】
____
若いねえ。
空との境界がくっきりと表れた雲。
じりじりと肌を焼く日差し。
減り始めたウグイスの鳴き声。
蚊取り線香の煙のにおいを身に纏った自分の足に構わず吸い付いてくる蚊たち。
汗ふきシートのにおいが充満する教室。
エアコンの風が直接当たる席は都合のいい時以外はハズレ扱い。
「暑い」が挨拶代わり。
そのくせ距離感は変わらない。
夏ですね。
【夏の気配】